稲美町を歩いていると、外の地域では、すっかり姿を消した麦畑が多いのに驚きます。
この麦(大麦)は、ほとんどお茶の原料になるそうです。
写真は、きのう(4/19)稲美町の帰りに神野町で撮影しました。
麦が育っています
時代は、江戸時代とそれ以前とします。
4・5・6月の3ヶ月は、冬作麦の刈り取りの時期に当たります。
農繁期です。
特に5・6月ごろは麦の収穫期で、この時期を「麦秋(ばくしゅう)」と呼んでいます。
現在では、麦秋というと、どこか「ロマンチック」にさえ感じる言葉です。
が、麦秋の頃は、食料の端境期に当たるため飢えの季節でした。
さらに、この時期は梅雨のために疫病が流行する時期です。
農繁期の過酷な労働と飢えと疫病とが重なって農民たちにとっては厳しい季節でした。
死者が多かったのもこの季節です。
この夏の飢えを乗り切るための食料が畑作であり、特に5・6月に収穫する麦でした。
つまり、麦は、飢えを乗りきるための重要な食料だったのです。
その証拠に、7月になると死亡率は減少しました。
以上は日本の話です。
戦前の朝鮮でも事情は同じでした。この時期の食糧事情はさらに深刻でした。
日本と同じく、5・6月はまさに春窮(しゅんきゅう)の時期となりました。
食料のたくわえが底をつく時期でした。
それに加えて、日本や両班(やんばん・朝鮮の指導層)が強制的に麦を取り上げたのです。
麦を見ながらこんなことも考えました。(no175)