健康楽園。

健康に関する情報・提案を主にする。

いっそ中国に学んでは?

2006-02-16 | P&E
日本とアメリカはお互いに血を流して戦いました。そして戦い終わって、やがて沖縄は日本に返還されました。
ロシアは、もう戦う力の無い日本満州国に条約を無視して攻め込んで占領してしまいました。
北方領土返還外交は、領土返還なければ対ソ協力無しの強硬論と、協力先行で、信頼回復後に領土返還の宥和論がある中で、宥和の方向を選びました。
しかし協力先行で得られたのは信頼回復でなく「平和条約が無くても日露関係は発展している。これでよいではないか。」というロシア側の領土返還拒否論です。
これは、日本側の一方的な希望的観測だけによっていて、相手との対話が不在のまま進んでいってしまうという曖昧な行動が原因だと思います。
世界情勢の流れを何故味方につけようとしないのでしょうか?
世界情勢の大きな流れとは、1928年の不戦条約であり1941年の太平洋宣言と1945年の国連憲章で確立している「侵略戦争は許さない。」「戦争による領土拡大は認めない。」というものでうす。これを背にして世界の世論を味方につける以外に突破口はないと思うんですが。
麻生外相は「日露で原則論を主張し合っても、先に進まない。だから北方四島の共同開発を進めたい。」と言ってますが、これでいいのか?「固有の領土はその国へ。」という日本の原則と、「領土は戦争で勝った国へ。」というロシアの原則のどちらが正しいか徹底的に議論すべきだと思います。
その審判は世界もしてくれます。
決してこれは対ソ敵視外交ではありません。言うべきことは言って欲しい。沖縄戦みたいに・もうヤーーメなんて放棄せずに議論して欲しいです。
中国の対日外交だって「対日抗議外交」であっても「対日敵視外交」ではありません。
ロシアの不法占拠が現在進行形で続いている中で、貴重な税金をロシアに貢がないで欲しい!!
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解散命令。

2006-02-16 | P&E
前回は「健児の塔」と「ひめゆりの塔」にお参りしましたが、あまり時間が取れませんでした。今回はゆっくりとひめゆりの塔の平和記念資料館まで見ることができました。沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等学女生徒が最後に逃げ隠れていた洞窟、手榴弾が投げ込まれて多くの生徒が亡くなった洞窟の上に石碑が立っています。
資料館はその奥にありますが、昨年訪れた、知覧や江田島のような遺書は、ほとんどありません。楽しい女学校生活の様子や陸軍病院での看護風景、そして死の彷徨の様子です。遺書さえ書く時間もなく、アメリカ軍の真っ只中に放り出されたという信じられない悲劇がかえって悲しみを深めます。
艦砲射撃の始まった昭和18年3月23日に彼女たちは那覇市の南東にある沖縄陸軍病院に配属されました。4月1日の上陸から米軍の南下に伴って日本軍の死傷者が激増して、看護・水汲み・飯上げ・死体埋葬に追われて仮眠する余裕も無くなって来ます。5月下旬には米軍の猛攻で、学徒達は総動員令が出ているので日本軍とともに陸軍病院を出て、沖縄本島最南端部に撤退していきます。
そして信じられないことが起こります。6月18日に突然「解散命令」が下されます。軍による統率放棄、まったく無責任な学徒たちを見捨てる判断です。
彼女らは絶望し、米軍の包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾によって、またガス弾で、またある生徒は手榴弾で自殺に追い込まれてしまったのです。ここまで引っ張ってきて、そのうえ責任放棄の解散命令とは、もう怒りしか感じられませんでした。これが軍隊か?あまりにも無様(ブザマ)です。
満州の関東軍も、住民より先に逃げてしまって、市民が死んで、残留孤児などの悲劇が生まれました。
市民がいつも犠牲になって、無責任に逃げるなら命令するなよ!!って言いたいです。

昨年12月のプーチン大統領が来日しました。プーチン本人が「領土問題を討議するつもりはない」と言っているのに、日本の外務大臣は「北方領土で共同開発を進めたい」などとノー天気なことをロシア外相に申し出たといいます。唖然です。
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海軍司令部壕。

2006-02-16 | looking.
今回始めて旧海軍司令部壕に行ってきました。旧日本軍が追い詰められた沖縄南部豊見城市の小高い丘の上に入り口があります。まだ公開されていない部分もありますが、この深い450Mに渡る長い地下壕をスコップとツルハシだけの手掘りで作ったことが驚きです。ここに4000人以上の兵士がいたというのですから。
狭い通路にそって司令室・幕僚室・作戦室・医療室・暗号室・発電室・信号室などが繋がっています。
この写真の司令室跡には、ここで自決した大田司令官はじめ幹部を祭る花が飾られていましたが、まだ壁には黒々と大田司令官の愛唱歌が刻まれています。
「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」という歌で、胸がつまります。「海行かば、みずく屍・・・・大君のへにこそ死なめ、省みはせじ」この歌を胸に印して何人の兵士が突撃していったか、なんともやりきれない気持ちが残ります。
1階は立派な資料館になっていて、沖縄戦の詳細・火炎放射器などを使っての白兵戦のビデオまで見ることができます。
沖縄戦の悲惨さは語り継がなければならない大事なことでしょう。
昭和20年3月23日艦砲射撃で攻撃開始した米軍は4月1日上陸を開始します。一週間余りで北部まで占領した米軍は、日本軍の主力部隊が集結する南部へ進み激戦が始まります。271万6691発の砲弾が使われたといいますから50万4千人いた沖縄県民1人当り472発にあたります。本土への上陸を1日でも遅らせようとする軍は、県民根こぞぎ動員を企て、防衛・持久作戦をとりました。ですから一般県民も巻き込んで20万人以上の戦没者数を数えました。アメリカ兵も12520名亡くなっています。4月7日には沖縄戦救援に向った戦艦「大和」も徳之島沖で壊滅しました。この狭い壕には負傷兵が溢れて、ここから出て突撃していった兵士は2度と帰ってくることはありませんでした。
6月23日、牛島司令官も自決して沖縄戦は終了します。6月13日にはこの司令官室で大田海軍少将が自決しますが、自決前に東京の海軍次官に宛てた電文が掲示されています。総動員令によっての県民の悲惨な状況を切々と訴え、「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」で結ばれています。
コメント (2)
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