印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

ライオン

2011-09-30 20:37:20 | 近代史
『ライオン』 の店名は1911(明治44)年、築地精養軒(上野精養軒の前身)が銀座4丁目の角に『カフェー・ライオン』を開店したときから続いているものです。そもそもこの『カフェー・ライオン』は、イギリス・ロンドンのピカデリーサーカスの角で営業していたレストラン会館「ジョー・ライオンズ商会」の名にあやかったものです。

このレストラン会館は、その創始者ジョー・ライオン氏の名前からとったものですが、同時に百獣の王ライオンの貫禄と威厳に敬意をはらって使われていました。また、ライオンは英国王室の紋章であり、イギリスを象徴する動物です。

このような名を当時西洋式レストランの元祖ともいえる店にいただき、『カフェー・ライオン』は明治、大正、昭和の3代にわたり多くの文化人に愛好されました。
当社がこの名を譲り受け、店名を『銀座ライオン』として今日に至っています。

サッポロビール直営のビヤレストランチェーン「銀座ライオン」の110年 ...

• 1899 – 明治32年8月4日(創業日) 東京・銀座の新橋際にわが国初のビヤホール ...• 1911 – 明治44年8月10日東京・銀座尾張町角(現銀座5丁目店の場所)にカフェー ...• 1914 – 大正3年5月1日札幌狸小路ビヤホール開店(札幌麦酒(株)経営).
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だれかがいったライオンの一号店は銀座四丁目だと。えっ、新橋の西口は違うというけれど。みんながそれで納得してしまったから。この人尾張交差点を披歴したからね。
webでみたら、1号店は新橋店のようだけどね。どうでもいいけど、話のネタにはちょっとね。

赤門は加賀藩

2011-09-30 19:48:07 | 近代史
江戸城の詰め所 さて、時代劇に時に見かける江戸城の「詰所」とはどんなところだったでしょうか。まず、「大廊下」これは最上席で御三家クラスでなければ入れません。座敷に続く通路の廊下ではありません。ついで大広間、溜間(たまりのま)、帝鑑間(ていかんのま)、雁間(かりのま)、菊間(きくのま)、柳間(やなぎのま)となっています。「大広間」これは親藩の大名。外様の上席。国持大名の中の、外様の詰所です。

「溜間」は譜代大名の中の特別の家柄の大名、例えば井伊家、酒井家などの詰所。「帝鑑の間、雁間」は譜代大名の上席の詰所。「菊間」は一般の譜代大名の詰所。「柳間」は一般の外様大名の詰所です。 江戸屋敷。大名は、幕府から江戸詰めのための屋敷を拝領していました。現在の東大のある場所が、加賀藩の上屋敷跡であることはあまりにも有名です。赤門は、将軍家の息女、溶姫(やすひめ)が加賀藩に嫁入りしたことを記念して造られました。
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5月は史跡巡りで、ニコライ堂、赤門、三四郎池などを散策した。どの上屋敷があったかというと、加賀藩の上屋敷があった。

江戸時代全国で班はいくつあったのだろう。276藩(275という説もあり)

尾張町交差点(銀座四丁目)

2011-09-30 19:46:48 | 近代史
京橋から新橋までの中央どうりを銀座どうりとよぶ。明治、大正のころは4丁目しかなかったという。銀座を埋め立てた藩名をとった。尾張町・加賀町・出雲町や竹や職人で一町をなした、竹川町など。その由緒ある町名を廃止して昭和5年3月に銀座8丁目ができたという。

友人が銀座8投目の土地を買ったのは、まだ土地の価格など、高くなく、整備してない時代であったようだ。

明治10年代の銀座の古い写真に、尾張町交差点から京橋方面を映したのが特に多いいという。銀座のシンボル、服部時計店は明治27年にこの場所に移設したという。

去年の今頃、東京湾クルーズに行った後、皆と分かれて、築地から銀座4丁目交差点まであるいてきて、有楽町から、京浜東北線に乗って帰った。

今後TV江では徳川秀忠が家康の後をついで、家光へ外様大名の上屋敷がととのい、江戸の街ができあがっていくようである。赤門もここにちかい。その昔根岸、や谷中あたりに、わび住まいであったろう。西日暮里から寺や、神社を4つほど眺めて歩いた。この辺りは、わび住まいからは、郊外という部分であったようだ。

みなさんと連れ立って風情を愉しんだ。そんな感じだ。夕焼けだんだんのうえで、20人弱での反省会で、江戸の庶民の味わいを愉しんだ。

右クリックご遠慮いただいて

2011-09-30 19:28:20 | 近代史
やたら記事をみていたら、右クリックご遠慮いただいております。

というのがあった。

中央区の地域情報です。ごめんなさい。

尾張町交差点とは?を知りたくて調べていただけです。銀座八丁目にいつも行っていた、ここで銀座は終わりなんですけれど。

尾張町はここで終わりと銀座四丁目の交差点のことらしい。

しらせが二隻東京湾に

2011-09-30 18:52:23 | 日記
しらせが2隻東京湾に並んでいる風景がある。珍しいという。一隻は明日南極へ出発という。これから南極は日本と逆で夏へ向かう。一ヶ月かけて南極へむかう。彼らもまた、ひっそりとした、南極へ、船のなかには、理髪屋、手術室、そのほかすべて、そろっている。舟の中だけの生活となる。一種俗世無縁になるか。

去年の今頃東京湾無料クルーズで南極船しらせがまだ東京湾に停泊しているのをみた。ガイドのかたがそう説明していた。

ひっそりと寺男

2011-09-30 18:34:20 | 日記
寛永寺の広い庭の根本中堂の前の四つ目垣の隅に寺男が草とりの手を休めてすわりこんでいた。ひっそりとした静けさのなか、俗世無縁のなか、ひっそり歩んでいた。

今日は半袖日和。30℃を超す暑さではあった。あすは天気がよくてもひんやり。20℃となる。


石垣の上篤姫の墓の塔がみえ

2011-09-30 18:22:32 | 近代史
篤姫のお墓は結局よくわからなかった。のです。

そこでwebを探してみると似たような方がいました。
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とはいえ、ノーリサーチで来た上、案内看板もないし、広すぎてどこにあるのか見当もつかない!!
聞く人もいない!(だって誰もいない…)困った私と㌧ちゃんは、寺から霊園のほうへ引き戻り、とりあえず歩いてました。すると、ひとつの門(東京下町散歩②で載せた葵の御紋入りの青銅の門ではなく、普通の鉄の門)が開いていて、そこに2~3人の人が折りたたみ式の会議テーブルの上で仏花をまとめていました。多分、花卉業者で墓参りに来た人たちに売るのでしょう。

すかさず、「篤姫の墓はどこにありますか?」と聞くと、霊園の中のほうを指さして、「あっちにありますけど、普段は公開していませんよ。」とはいえ、諦めきれない!ここですごすごと引き換えすのは勿体無い!と、せめて外観だけでも見れないだろうかと霊園の中に入ってみました。

視界の彼方まで一般の墓が建ち並ぶ広大な敷地の中に、四方石垣に囲まれたところが2ヶ所あります。

寛永寺には、4代・家綱と5代・綱吉の、2つの霊廟があり、8代・吉宗、10代・家治、11代・家斉、13代・家定は、2つのいずれかに合祀されています。ということは、ハハァ、あの2つの石垣は霊廟で、どちらかに家定&篤姫のお墓があるのね!!!石垣へ向かいます。
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もうなんとなく、これで満足することにしました。後は和宮さまのお墓は、たいていの徳川家のお墓は増上寺ですね。きっとそこにあるのでしょう。

寛永寺篤姫の墓

2011-09-30 17:48:01 | 近代史
篤姫ドラマの人気に伴い、これまで、あまり知られていなかった篤姫の生涯に興味を持つ人が増え、お墓参りに行きたいという要望が激増しているとか。

篤姫のお墓は、上野の寛永寺の奥にある徳川家の墓所内で、夫の家定のお墓と並んでいます。

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今日史跡散策で、西日暮里~谷根千地区をあるいた。
谷中霊園のなかに、徳川慶喜の墓があるのは、前にいったことがあって、その時は運よく慶喜さんのお孫さん、といっても、40歳くらいの男性で気さくな人で、お墓のある敷地の中に、入れて下さいました。ぐるっと回れば、鉄柵ごしに見えるようになっていた。全貌が見渡せるのを今日初めて知りえた。一瞬にして、全容が鉄柵越しに見渡せる場所があるとはしらなかった。誰かが鉄柵の隙間に花束をはさんであった。もう枯れてはいたけれども。

次に寛永寺にいった。大きな静かな場所で、奈良の、東大寺の庭のようであった。そこに、篤姫の墓が非公開であることが看板絵のmapに書いてあった。みんなで記念写真をとって、40人くらいいて、すぐに出発する構えをみせてはいたけれど、足並みに乱れが生じていた。

アクセルをかけて、見に行こう。後ろからMさんがいたので、篤姫の墓をみてくる。といって、もうダッシュした。寛永寺の奥の出口付近に向こうから来た自転車の人にきく。篤姫さんのお墓はどちらですか?向こうの敷地の一番奥にありますよ。(非公開だから、見えにくいから。)でも塔の上の部分は見えますよ。

それだけ聞けばOK.ちょっと時間的に難しかな。とはいえ、そこまでいってみる。引き返してMさんが途中まで、きていた。Mさんに塔の上だけですけど。群れない、慣れない、頼らない。そういう主義でいっているから。皆さんごめんなさい。Mさんと戻りかけると、三々五々ではあるが一行は出発していた。けれども、何人かは根本中堂の写真撮っている人もいた。誰にも気づかれず、密かな篤姫さんの江戸末期の空気に触れた思いだった。でも気づかれていたね。

障害者手帳2級

2011-09-29 22:35:37 | 日記
友人に障害者手帳3級の人がいて、その人と一緒のときは美術館やケーブルなど、只で、付添も1/2であった。両足にジュラルミンの金属を12年もいれている。そろそろ交換時だそうだ。

友人の息子さんが春ごろオートバイ事故で、入院された。そして退院された。障害者手帳2級をもらった。左半分の頭を打ちけたから、右半分に不自由がでている。右手が箸などは使えて、日常生活は不自由ないけれど、細かい字は書けない。左手で書く練習をしている。手帳をいつも持ち歩いているのを忘れるくらい、普通にでかけている。バスなどは半額になるようだが利用するのはまだしてないようだ。勿論3級よりは上なのである。ケーブル、美術館は只で、付添は1/2である。

いろいろ事情はあっても苦難を乗り越えて今は平和である。おっとーその方のお父様は、記憶が苦手になって物忘れするなど、といって、MR検査をしたところ、右脳に血の塊があって、骨に穴をあけて、血を吸いだしたようだ。前とそれほど変化はないようであると言っているけれどもやれやれですね。20年前にころんで打った記憶ありますか?といわれたそうだが、覚えてないようだ。


もう一人の友人、左手と左脚がつったり、しびれたりするようだ。造影剤を動脈にいれて、写したようだ。胸のあたりで消えているといっていた。来週火曜日また検査にいくという。まだ原因は不明。そのうちに原因わかったか、わかるでしょう。しばらくして聞いてみよう。

いぜんとして、最もすぐれた生き方とは、何か関連するようなことは、ノーコメント。費やす暇はないから関心はうすい。自分も病院に行った方がいいような自覚症状を、微々たる注目がなきにしもないけれど。まだ切っ掛けは見つからない。

賢者たちの言葉

2011-09-29 18:04:12 | 日記

上記の言葉は、「トップが身を滅ぼす十の過ち」と題した項目のひとつで、自分の力をわきまえず、周りの国の力をあてにして、国を削られてしまうという意味です。 ... 常にそれを自覚しつつ、新しいことを学ぶ姿勢を持つことが重要だと孔子は言っているのだと思います。 .... しかしあくまでそれは休憩であり、心が癒されたらまた人間関係の中に入っていこう、人の世界も決して悪いものではないと漱石は言っています。 ...
ーーby googleーー

癒し、孔子、国を滅ぼすといっていた、二胡奏者のいっていたことは、こういうことであろうか。
癒されたらまた元気になって、新しいことをしなければ、その人の人生は成り立たない。

それにしても、賢者の言葉をよむと、なるほどと昔からの賢者の言葉は、含蓄がある。

漢語百題

2011-09-29 17:45:49 | 日記
浅田次郎『蒼穹の昴』第七章(講談社文庫)に次のようなくだりがある。
 「少荃(シャオチェン)?……」
  槍の穂先を咽元(のどもと)に突きつけられて、栄禄は失禁した。
 「汝のような下郎に字(あざな)を呼ばれるいわれはない」
 「閣下……李鴻章(りイホンチャン)閣下……」

中国人は名と字(あざな)を持っていた。たとえば孔子の名は丘、字は仲尼という。現在はもうつけなくなっているだろうが毛沢東も潤之という字を持っていた。名は生れた時につけられるが、字は二十歳の成人式につけられた。女性の場合は婚約を期につけられたという。 名は本人が自称に用いるか、あるいは目上の者から呼ばれる場合に使われた。目下の者が目上の者の名を呼ぶのはたいへん失礼なことで、必ず字(あざな)で呼んだ。つまり字(あざな)は敬意をこめた呼称なのである。
ーーーーーby googleーー

癒し、孔子、国を滅ぼすとwebでみていたら、漢語百題にぶつかった。これが百個もいろいろ言葉があって、興味深い蘊蓄がかいてあって、おもしろいのである。当分退屈しない鉱脈にあたった。

ーーー以下もgoogleーーー
孔子は弟子である仲由という人物をその名の由(ゆう)で呼ぶ。しかし、地の文では「子路(しろ)曰く」などと字(あざな) ... 慰庭は国を滅ぼす」という場面がある。慰庭は袁世凱の字(あざな)である。字(あざな)が敬称であることを知っていれ ...
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初め慰庭はという文章をほかの画面でみていた、癒しの庭なのかと思っていたら、人の名前で、字だったとしたら、よく意味がわかった。

癒し、孔子、国を滅ぼす

2011-09-29 17:27:53 | 日記
亡秦者胡也(秦を亡ぼす者は胡なり)。始皇帝が統治する秦を滅ぼす者は(始皇帝の息子である)二世皇帝の胡亥(こがい)である、という。中国史上に有名なこの予言のように、秦の始皇帝を超える統治者だと自称した毛沢東は、孔子の魂を呼び戻して共産党の統治に力を借りた…の時代を予見していたのだろうか。
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…は胡錦濤さんを差しているようです。胡錦濤さんの写真今年初めころ、松本楼で皇居一周ウォーキングの後ランチでよったとき、松本楼の社長さん夫妻と福田総理(当時)と写真にうつっているのを飾っていた。辛亥革命のとき、松本楼と孫文さんと深つながりがあったという。

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2011年1月17日 – 中国政治の中心地・北京の象徴である天安門からほど近い場所に、先日、孔子の銅像が設置されたニュースは、最近の中国のネット上で話題となっている。40年 ... 始皇帝が統治する秦を滅ぼす者は(始皇帝の息子である)二世皇帝の胡亥(こがい)である、という。 ... 台湾企業経営者 「神韻公演で心を癒して」 日本人へメッセージ ...
ーーーーーby googleーー

今日二胡の演奏会を聴きに市民会館にいった。
よくわからなかったけど、癒しと思ってとどまってはいけない。という。
孔子の言葉にもあるという。
癒しという言葉は嫌いな言葉だという。
楊貴妃、始皇帝など、わずかな手がかりの言葉をもってしてもよく理解しがたいけど。
この言葉でさがすと、歴史的偉大な言葉集などにぶつかった。ビジネスのうえに、大変諫言となるような。

信濃路自然歩道とチャイブ

2011-09-29 00:41:54 | 日記
やっと信濃路自然歩道を歩ける。そう思って観光案内所で大きな看板の地図をみてで輪郭をつかむ。観光案内所は蕎麦屋のとなり、でだれもいない。資料もない。こじんまりとして、カウンターだけ。

しばらくメルヘン街道を下って、おかしいと気づき、そこの洒落たレストランで尋ねる。自然遊歩道はどちらでしょうか?すると、答えが今来た滝のほうである。あっそこは、いまそこから、きたのです…、蓼科湖のほうに、いきたいのですけれど。というと、戻ってひだりにいって、…。ありがとうございました。と言って。戻る。左ということで、それはわかるんだけど…。

しばらく戻ると左の道から車がきた。三人でよけて、すぐに咄嗟の判断で、すみません。自然歩道にいきたいいんですけど。というと、滝の方を言う。今そこからきたのですけど、蓼科湖の方に行きたくて…。でやっとこたえがえられた。

「この道を下って、しばらく行くと、右に『チャイブ』という看板がありますから、そこを右に曲がって、『チャイブ』で左にまがれば、いけますよ。」

なるほど、チャイブはべつにして、そこから、自然歩道の杭がたっていて、行く先々の曲がり角には杭に蓼科湖の→がついていました。少し登りの部分もありましたけれど、車もたまにはとおっていまして。

チャイブは助かりました。洒落たケーキ屋さんみたいですけれど、人かげなくて寂しそうでした。

家に帰ってチャイブwebで見ましたら、ありましたね。分かりやすい拡大mapもあって、看板の箇所も6個もpinkでしるしがついていました。軌跡はこの青い線のとおりでした。一番頼りになるいい地図でした。遠足にいって、あとからこんなの見るの楽しいですね。

蓼科湖ラリー

2011-09-29 00:13:51 | 日記
起点の明治温泉の分かれ道で全員32名で準備運動をした。それで蓼科中央高原横谷遊歩道に出発。間もなく最初の滝へいく、遊歩道へおりる地点にさしかかる。そこにトイレがあるのだかれど、何せ一つしかない。そこにみんな列をつくってしまった。100キロウオークの出発地点の海岸べりにこういう風景があったなあ。

で我々は最初の滝の岩を踏み渡る。向こう岸へ手すりの付いたのぼりがつづいている。で途中で人数を数えて9人でいく。次の滝あたりで出発すると、7人いた。で引き返してみると、後続組に入ったようでと報告がはいったので、7人でいっていた。乙女滝の時は3人になっていた。滝は迫力あって素晴らしい。また階段を登って登山道にいくと、後続組が20人ほどほぼ全員いたので、ぜひみたほうがいいよ。と推奨して、いく。

仲間の一人がそこの乗用車が20台ほどある、会社の宿舎のようなところのトイレを借りたいという。あと600㍍で観光案内書につくから、というと、それでいいというので先へ行く。

そこで乙女滝を見ないことにした3人が弁当をたべていた、我々が出発した姿をちらっとみたのだそうだ。バスの横の席のひとだけれど。12:30

でも、少しいって、道を間違えたことに気が付いて、もどってきたら、だれもいなくて、自然歩道を見つけて、ゴールまで30分でいって、蓼科湖で弁当にした。13.00
バスに荷物をおいて、土産屋さんで時間つぶしていたら、後続組が全員もどってきた。集合時間すぎていた。自然歩道通らずに、サイクリングロードできたといっていた。全員観光案内所でお昼にして、時間的余裕がなくなったと判断して、先生が、違う選択をしてきたといっていた。

結局予定どうりのコースでいったのは俺ら3人だけだったようだ。皆残念がっていたようだった。この蓼科湖ラリーは3人以外は全員失格だったことですね。

MAPで辿るゲーム

2011-09-28 23:17:27 | 日記
今日の遠足、中央道を茅野でおりて、奥蓼科にはいります。明治温泉から横谷峡谷に入って、4つの滝をめぐります。これが1.5時間くらい。そのあと、信濃路自然遊歩道をとおって、蓼科湖へでる。そこの、レジャーランドのPにバスはまっている。

で歩くのはそれぞれのペースで、人によって違いますから。でこのヨガの遠足はいつもバラバラで、そろって歩かなくていいことになっている。

先生は最後尾にいきます。となっている。いつも簡単な地図は印刷されているが、観光協会のを、白黒に小さくのっているだけ。起点はみんな一緒で32人いたけれど、終点に至るプロセスはいつもバラバラで、時間厳守。以前筑波山のとき、下山の集合はケーブルのしたのPなのだけれど、登り口に行った人がいて、大変だった。幸いタスマニアにいったときの仲間であって、携帯番号を、いれてあったので、連絡とれた。先生はとても憤慨していて地図を確認していないと、そのあと何回も話題にする。

それで基本をもとに、大抵は先頭を歩くことにしている。最後になった人はいつも、コース変更を余儀なくされているから、例えば、水仙見学の時は鋸山でたまたま走っていた車に遅れた人を歩けそうにないのでのせて、集合場所のバスPまでいっている。このときは地図が大雑把で、全員が道に迷った、ようで、相当長い距離をうろうろしたようだった。別に正しい道がこれだとあるような、場所ではない、広範囲な水仙の丘だった感じ。道に迷っても、それほど、大事に至るような地域でもない。いかに脱出して、全体像をつかむか、そんな訓練がつみかさなってきている。半ばMAPで辿るゲームみたい。