印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

敦さんの中学は京城生活

2015-01-14 09:50:30 | 近代史
父親の田人は大正9年9月、県立浜松中学校から当時の朝鮮の京城にあった龍山中学校へ転勤となった。おで敦さんも父に伴われて海を渡り龍山公立尋常小学校5年に転入学した。とある。
家は漢江に面していたという。

翌年、ただ一人のはらから妹がうまれ、その生母が産後になくなり、その生母は敦には第二母で
翌年第3母を迎える。
ここで中学をすごすのですが、第2母、第3母と仲がいずれも悪く、したがって父との折り合いも悪い。
大正14年龍山中学校を退職し、10月に関東庁立大連第2中学校に赴任したという。
大連は2回ほど観光旅行でなく訪問しているから、懐かしい。

敦さんは第2母がなくなったあと、京城で伯母さんと暮している。
秀才で、友人を教師と論争して、処罰からたすけ、舎館長とも掛け合い他の処罰からも救い出した
その後大正15年に上京。一高の寮に入る。
時に17歳

6年いたのですね。京城生活はこうして終了したのですね。
切ない生活
大事な青春期をこうして育った。
勉強は充分できた。、大きな環境の中で過ごした、大正9年から大正15年。
自分の両親が大正4年と6年生まれだから、まあーそのような時代背景の時代に、こういうかかわりがあった。ということに、改めて厚みが加わった思いがした。
もう少しじっくりこの時代を読んでみたくなった。

歴史ははっきりしない

2012-12-23 21:58:33 | 近代史
忘年会でいつも歴史の話がでてくる。頼朝はきれいな顔でなかった。頼朝さんは醜かった。寂しい所にお墓があって、政子さんのお墓は隣にない。歴史は定かでないから、言い伝えなど、歌舞伎で等で脚色されてくる。頼朝さんのお墓は電線に台湾リスがチョロチョロ這っていた住宅街の奥の方にちょっとした林のあるところがあって、そこの茂みの中にひっそりと建っていた。仰々しい囲いもなく。

赤穂浪士も、どちらがいいかわからないから。宝井(榎本ともいう)其角と大高源吾の話しも話題になる。義士の日、明日あるよばらしている。俳句にたくして教えた話。そんなことありえないというけれど。吉良上野介を町の顔にして、いるところもあるのだから。その時々の、人がキャラクターをつくりあげているだけだから。

真珠湾もABCDの囲いがあったから、暗号はわざとずらして発表したからという説がちらほらとなった。AはAmerica,BはBritain, Cはchina, DはDutch.はっきりしないことをいつもいっている。

敗戦の日を中国でむかえた人々

2012-11-07 23:01:04 | 近代史
井上剣花坊(1870~1934)日露戦争期に新川柳を興した。大正から昭和初期の川柳の大山脈を築き挙げた。
石原青龍刀(1898~1979)アジア主義を自負。満州にわたり、雄図挫折、敗者となった大陸柳人。
東野大八 (1914~2001)野戦病院で麻酔なしで左腕を切り落とされた。
中国を題材とした川柳を三人とも詠んでいる。己の戦火の酷烈な経験を背景にしている。大八と青龍刀は敗戦の日を北京で迎えている。

北京は今万里の長城遭難の地として、毎日メディアを賑わしている。
そのまえは抗日デモを繰り返していた。9月ごろ。

史料ををこれでもかこれでもかと厚着した文章で研究者の歴史叙述が多い。それに比べて、削り僅か17音で時代の核心をついた川柳にに魅了される。舌を巻く。じけんの羅列、駄洒落、ごろ合わせでないのがいい。そういうのもあるけれど。時事川柳の奥は深い。、

この時代は抜けているので興味がわいてくる。ゾルゲ事件に関係した人などliveで見ている感じがする。

川柳の中の中国

2012-11-05 17:09:44 | 近代史
日本人にとって、中国は長らく、その先進的な文化や制度を学んだ国。だが明治時代以降、先に「近代化」を果たしたのは我が国で、中国に対する見方は徐々に変えていったのであろう。

それがこの本の川柳に表れている。庶民の視点から近代日中関係が見えてくるのがいい。
明治期に川柳も大きく変わり流派がいくつもわかれて、そのことについては5月の川柳合同の会で学んだ。資料をくださった。

明治期新川柳運動を担った井上剣花坊とか大陸川柳壇のかたとか関西川柳壇のかたの句が膨大な作品が載っている。
B6班の本で276頁+アルファある。読みごたえがあり川柳と言っても近代史を読んでいる気分。

¥3600円で買えないし、一気によめそうもないのでいずれまた期間をおいてよむことになるだろう。この本は日露戦争からアジア・太平洋戦争までと副題がついている。ほかのがあるかどうかは不明。

あら鷲も獅子も獲物をねらふらん
    野分乱るるもろこしか原   (『日本』明治31年10月9日)

という狂歌が一つ入っている。獅子は英国。列強の分捕り合戦が極東、「もろこしか原」に集中。清朝はやがて辛亥革命となり、…

狂歌も面白い。秀吉のじだいからよくみる。


私は貝になりたい

2012-08-16 17:01:41 | 近代史
今日オリンピックもおわり久しぶりに歩こう会にいった。
といっても15日の終戦日に伴い、終戦に関するドラマがあるから、やはりそれをみてしまう。
ですので、朝めがさめた時は、すでに梅ちゃん先生が終わっていた。8時20分位か。9時に集合なので忙しい。体がなまってしまうから、と決心して、心を振るいだたせて、行ってきた。少し遅れてしまった。一行は出発しはじめていた。

昨日のは、仲居正広さん主演の「私は貝になりたい」であった。2008年の映画の地上波初

終戦後、ある戦犯容疑で死刑を宣告された男性の悲劇的な運命を描いていた。引き裂かれた若い夫婦愛が涙を誘う。
1958年のテレビドラマを映画化されたという。不朽の名作だ。

昨日は、夕方若い知人らと浦和で食事会をした。その時あの日の事が話題になった。
あの日といっても、若い人にとっては、終戦とは結びつかない。
終戦といっても、第二次世界大戦のあととは結びつかない。

終戦とはどの戦争のあとですか?
日露戦争の後か、第一次世界大戦の後か、 第二次世界大戦のあとか?
大学で講義していても、そう聞かれるという。


incompatible parry

2012-08-15 13:40:34 | 近代史
昨日のtanaka memorial では、受け流すという選択もあるといっていた。

もともとだれが作成したのか、不明のものである。
日本の当時の総理が作成したといっているが、明らかに贋物と、当時より2年前に新聞上で掲載している。すでに贋物だと判明している。それを論点として出してきている。

しかし贋物かどうかは論点にしている場面ではないのである。
情報戦だから。

論破したつもりになっていても、それが筋書ではないのだから。
我慢合戦みたい。
まるで、オリンピックの松本薫さんの柔道の試合を連想する。
闘争心が強くて、我慢、我慢して、勝負するときを待ったという。

これとは違いすぎますが。
論破したつもりにならず、ことは筋書通りにすすまないのだから、受け流す。
こういう場面日常の中でも、何かいもある。

相手は論破していると有利に思っている。
こちらは沈黙は金なり。で決して相手にしてはいけない。

田中メモリアル(上奏文)

2012-08-15 13:15:17 | 近代史
なぜこの文書が世界に流布してきたのか。それが全部の引き金となっている。これがすべてだったような。これにすべてがふりまわされたり、利用されたり、惑わされたり。番組を見ていたらそんな歴史の攻略になっていた。なぜに回避できなかったのか。ねばたらはいつも、スポーツでも、サッカーでもいつもでてくる。明治維新できた外交が、ここで真逆の方向にいってしまったのか。

この問題を十年来追い続けてきたのが、番組の語り手の服部龍二さん。

服部さんは中国や台湾の史料を調査した末に、中国政府が田中上奏文を偽書と認識しつつ、排日宣伝に用いてきた事実を明らかにした。オリンピック最中に李明博現大統領が竹島に上陸した。秋には与党の他の大統領候補と交代するであろう。今日の大統領挨拶には竹島の事は、ふれなかったとヤフーにのっていた。中国においても重慶のサッカーの試合に、サポーターに対するもの排日は大変だった。昨日も台湾の漁船が尖閣列島に上陸する計画は、当局の指示で取りやめになったとニュースで映像つきでていた。

何故という、その経緯は、著書『日中歴史認識 「田中上奏文」をめぐる相克1927-2010』(東京大学出版会)の中で詳述されているという。

服部さんは田中上奏文が投げかける意味を番組の中で話していた。
「国際政治には、事実関係とは別に情報戦という次元がある。明らかな偽書や俗説でも、不用意に真偽論争に持ち込めば、かえって宣伝に逆用されてしまうこともある。」
「田中上奏文」は、国際政治における宣伝、情報の重みを今に問いかけています。

むつかしいですね。

長春(旧新京)のこと

2012-08-15 11:31:18 | 近代史
長春で生まれた人がいる。戸籍にそう書いている。

昨日Eテレにまわすと、そのころの近代史を対話形式で
満州国新京(現長春)
1633年国際連盟脱退  そこから日本の歴史が変わっていった流がよく理解できた。
満州に新京に建てた「国務院」のもと総理室で、NHKの人と、中央大学の服部龍二さんとでたった二人で話していた。
そのころの歴史の解明を、原稿もなにも見ないで、話している。その知識の深さと、分析に惹きつけられる。国務院の重厚な建物の中の、重厚なもと総理室の中で。(一般人は見学不可、溥儀の皇宮は見学可)

この建物はそのまま現存している。大連にも大和ホテルなど重厚なたてものがそのままの形で現存しているけれど。

そのなかで tanaka memorialのことが話題の中心でこれが松岡洋介と顧維鈞(こいきん)の国際会議のばでの論点になっていた。もっともこの田中メモリアルは贋物であるのですが。そのことは論外となっていた。顧維鈞(こいきん)さんはコロンビア大学出でそのころの中国の外務関係に秀でた才能で、リットンの調査とかいろいろに手腕を発揮したようだ。駐米大使もしていたみたい。

今日は15日あの日である

2012-08-15 11:23:22 | 近代史
オリンピックも終わり、はやくねることができるかとおもえばそうもいかない。
昨日、寝る前にEテレにCHを桁。語学でもみて寝ようかな。
それがめが覚めた。

近代史の知らないことが
満州長春で撮影されていた。ではと見ることにした。みているうちに、惹きつけられた。

毎年15日にはNHKスペシャルであのを日教えてくれるものがある。ほかの局でもあの日のドラマがある。

あの日を知らない人にあの日をい年に一回教えてくれる。いつも同じ内容でない。

ライオン

2011-09-30 20:37:20 | 近代史
『ライオン』 の店名は1911(明治44)年、築地精養軒(上野精養軒の前身)が銀座4丁目の角に『カフェー・ライオン』を開店したときから続いているものです。そもそもこの『カフェー・ライオン』は、イギリス・ロンドンのピカデリーサーカスの角で営業していたレストラン会館「ジョー・ライオンズ商会」の名にあやかったものです。

このレストラン会館は、その創始者ジョー・ライオン氏の名前からとったものですが、同時に百獣の王ライオンの貫禄と威厳に敬意をはらって使われていました。また、ライオンは英国王室の紋章であり、イギリスを象徴する動物です。

このような名を当時西洋式レストランの元祖ともいえる店にいただき、『カフェー・ライオン』は明治、大正、昭和の3代にわたり多くの文化人に愛好されました。
当社がこの名を譲り受け、店名を『銀座ライオン』として今日に至っています。

サッポロビール直営のビヤレストランチェーン「銀座ライオン」の110年 ...

• 1899 – 明治32年8月4日(創業日) 東京・銀座の新橋際にわが国初のビヤホール ...• 1911 – 明治44年8月10日東京・銀座尾張町角(現銀座5丁目店の場所)にカフェー ...• 1914 – 大正3年5月1日札幌狸小路ビヤホール開店(札幌麦酒(株)経営).
ーーーーー↑ bygoogleーー

だれかがいったライオンの一号店は銀座四丁目だと。えっ、新橋の西口は違うというけれど。みんながそれで納得してしまったから。この人尾張交差点を披歴したからね。
webでみたら、1号店は新橋店のようだけどね。どうでもいいけど、話のネタにはちょっとね。

赤門は加賀藩

2011-09-30 19:48:07 | 近代史
江戸城の詰め所 さて、時代劇に時に見かける江戸城の「詰所」とはどんなところだったでしょうか。まず、「大廊下」これは最上席で御三家クラスでなければ入れません。座敷に続く通路の廊下ではありません。ついで大広間、溜間(たまりのま)、帝鑑間(ていかんのま)、雁間(かりのま)、菊間(きくのま)、柳間(やなぎのま)となっています。「大広間」これは親藩の大名。外様の上席。国持大名の中の、外様の詰所です。

「溜間」は譜代大名の中の特別の家柄の大名、例えば井伊家、酒井家などの詰所。「帝鑑の間、雁間」は譜代大名の上席の詰所。「菊間」は一般の譜代大名の詰所。「柳間」は一般の外様大名の詰所です。 江戸屋敷。大名は、幕府から江戸詰めのための屋敷を拝領していました。現在の東大のある場所が、加賀藩の上屋敷跡であることはあまりにも有名です。赤門は、将軍家の息女、溶姫(やすひめ)が加賀藩に嫁入りしたことを記念して造られました。
ーーーby googleーー

5月は史跡巡りで、ニコライ堂、赤門、三四郎池などを散策した。どの上屋敷があったかというと、加賀藩の上屋敷があった。

江戸時代全国で班はいくつあったのだろう。276藩(275という説もあり)

尾張町交差点(銀座四丁目)

2011-09-30 19:46:48 | 近代史
京橋から新橋までの中央どうりを銀座どうりとよぶ。明治、大正のころは4丁目しかなかったという。銀座を埋め立てた藩名をとった。尾張町・加賀町・出雲町や竹や職人で一町をなした、竹川町など。その由緒ある町名を廃止して昭和5年3月に銀座8丁目ができたという。

友人が銀座8投目の土地を買ったのは、まだ土地の価格など、高くなく、整備してない時代であったようだ。

明治10年代の銀座の古い写真に、尾張町交差点から京橋方面を映したのが特に多いいという。銀座のシンボル、服部時計店は明治27年にこの場所に移設したという。

去年の今頃、東京湾クルーズに行った後、皆と分かれて、築地から銀座4丁目交差点まであるいてきて、有楽町から、京浜東北線に乗って帰った。

今後TV江では徳川秀忠が家康の後をついで、家光へ外様大名の上屋敷がととのい、江戸の街ができあがっていくようである。赤門もここにちかい。その昔根岸、や谷中あたりに、わび住まいであったろう。西日暮里から寺や、神社を4つほど眺めて歩いた。この辺りは、わび住まいからは、郊外という部分であったようだ。

みなさんと連れ立って風情を愉しんだ。そんな感じだ。夕焼けだんだんのうえで、20人弱での反省会で、江戸の庶民の味わいを愉しんだ。

右クリックご遠慮いただいて

2011-09-30 19:28:20 | 近代史
やたら記事をみていたら、右クリックご遠慮いただいております。

というのがあった。

中央区の地域情報です。ごめんなさい。

尾張町交差点とは?を知りたくて調べていただけです。銀座八丁目にいつも行っていた、ここで銀座は終わりなんですけれど。

尾張町はここで終わりと銀座四丁目の交差点のことらしい。

石垣の上篤姫の墓の塔がみえ

2011-09-30 18:22:32 | 近代史
篤姫のお墓は結局よくわからなかった。のです。

そこでwebを探してみると似たような方がいました。
ーーーーー

とはいえ、ノーリサーチで来た上、案内看板もないし、広すぎてどこにあるのか見当もつかない!!
聞く人もいない!(だって誰もいない…)困った私と㌧ちゃんは、寺から霊園のほうへ引き戻り、とりあえず歩いてました。すると、ひとつの門(東京下町散歩②で載せた葵の御紋入りの青銅の門ではなく、普通の鉄の門)が開いていて、そこに2~3人の人が折りたたみ式の会議テーブルの上で仏花をまとめていました。多分、花卉業者で墓参りに来た人たちに売るのでしょう。

すかさず、「篤姫の墓はどこにありますか?」と聞くと、霊園の中のほうを指さして、「あっちにありますけど、普段は公開していませんよ。」とはいえ、諦めきれない!ここですごすごと引き換えすのは勿体無い!と、せめて外観だけでも見れないだろうかと霊園の中に入ってみました。

視界の彼方まで一般の墓が建ち並ぶ広大な敷地の中に、四方石垣に囲まれたところが2ヶ所あります。

寛永寺には、4代・家綱と5代・綱吉の、2つの霊廟があり、8代・吉宗、10代・家治、11代・家斉、13代・家定は、2つのいずれかに合祀されています。ということは、ハハァ、あの2つの石垣は霊廟で、どちらかに家定&篤姫のお墓があるのね!!!石垣へ向かいます。
---↑by googleーーー

もうなんとなく、これで満足することにしました。後は和宮さまのお墓は、たいていの徳川家のお墓は増上寺ですね。きっとそこにあるのでしょう。

寛永寺篤姫の墓

2011-09-30 17:48:01 | 近代史
篤姫ドラマの人気に伴い、これまで、あまり知られていなかった篤姫の生涯に興味を持つ人が増え、お墓参りに行きたいという要望が激増しているとか。

篤姫のお墓は、上野の寛永寺の奥にある徳川家の墓所内で、夫の家定のお墓と並んでいます。

----↓by googleーーー

今日史跡散策で、西日暮里~谷根千地区をあるいた。
谷中霊園のなかに、徳川慶喜の墓があるのは、前にいったことがあって、その時は運よく慶喜さんのお孫さん、といっても、40歳くらいの男性で気さくな人で、お墓のある敷地の中に、入れて下さいました。ぐるっと回れば、鉄柵ごしに見えるようになっていた。全貌が見渡せるのを今日初めて知りえた。一瞬にして、全容が鉄柵越しに見渡せる場所があるとはしらなかった。誰かが鉄柵の隙間に花束をはさんであった。もう枯れてはいたけれども。

次に寛永寺にいった。大きな静かな場所で、奈良の、東大寺の庭のようであった。そこに、篤姫の墓が非公開であることが看板絵のmapに書いてあった。みんなで記念写真をとって、40人くらいいて、すぐに出発する構えをみせてはいたけれど、足並みに乱れが生じていた。

アクセルをかけて、見に行こう。後ろからMさんがいたので、篤姫の墓をみてくる。といって、もうダッシュした。寛永寺の奥の出口付近に向こうから来た自転車の人にきく。篤姫さんのお墓はどちらですか?向こうの敷地の一番奥にありますよ。(非公開だから、見えにくいから。)でも塔の上の部分は見えますよ。

それだけ聞けばOK.ちょっと時間的に難しかな。とはいえ、そこまでいってみる。引き返してMさんが途中まで、きていた。Mさんに塔の上だけですけど。群れない、慣れない、頼らない。そういう主義でいっているから。皆さんごめんなさい。Mさんと戻りかけると、三々五々ではあるが一行は出発していた。けれども、何人かは根本中堂の写真撮っている人もいた。誰にも気づかれず、密かな篤姫さんの江戸末期の空気に触れた思いだった。でも気づかれていたね。