父親の田人は大正9年9月、県立浜松中学校から当時の朝鮮の京城にあった龍山中学校へ転勤となった。おで敦さんも父に伴われて海を渡り龍山公立尋常小学校5年に転入学した。とある。
家は漢江に面していたという。
翌年、ただ一人のはらから妹がうまれ、その生母が産後になくなり、その生母は敦には第二母で
翌年第3母を迎える。
ここで中学をすごすのですが、第2母、第3母と仲がいずれも悪く、したがって父との折り合いも悪い。
大正14年龍山中学校を退職し、10月に関東庁立大連第2中学校に赴任したという。
大連は2回ほど観光旅行でなく訪問しているから、懐かしい。
敦さんは第2母がなくなったあと、京城で伯母さんと暮している。
秀才で、友人を教師と論争して、処罰からたすけ、舎館長とも掛け合い他の処罰からも救い出した
その後大正15年に上京。一高の寮に入る。
時に17歳
6年いたのですね。京城生活はこうして終了したのですね。
切ない生活
大事な青春期をこうして育った。
勉強は充分できた。、大きな環境の中で過ごした、大正9年から大正15年。
自分の両親が大正4年と6年生まれだから、まあーそのような時代背景の時代に、こういうかかわりがあった。ということに、改めて厚みが加わった思いがした。
もう少しじっくりこの時代を読んでみたくなった。
家は漢江に面していたという。
翌年、ただ一人のはらから妹がうまれ、その生母が産後になくなり、その生母は敦には第二母で
翌年第3母を迎える。
ここで中学をすごすのですが、第2母、第3母と仲がいずれも悪く、したがって父との折り合いも悪い。
大正14年龍山中学校を退職し、10月に関東庁立大連第2中学校に赴任したという。
大連は2回ほど観光旅行でなく訪問しているから、懐かしい。
敦さんは第2母がなくなったあと、京城で伯母さんと暮している。
秀才で、友人を教師と論争して、処罰からたすけ、舎館長とも掛け合い他の処罰からも救い出した
その後大正15年に上京。一高の寮に入る。
時に17歳
6年いたのですね。京城生活はこうして終了したのですね。
切ない生活
大事な青春期をこうして育った。
勉強は充分できた。、大きな環境の中で過ごした、大正9年から大正15年。
自分の両親が大正4年と6年生まれだから、まあーそのような時代背景の時代に、こういうかかわりがあった。ということに、改めて厚みが加わった思いがした。
もう少しじっくりこの時代を読んでみたくなった。