先日木曽にいったとき、行く時も、帰りも諏訪湖の側をとおる。眞田氏はこの辺である。高遠のサクラを7年前の木落としをみにいったとき、諏訪湖に姫様の立像があったと思う。この時代のものがたりだ。眞田というのは後世の人がつけたともきいていたけれど。当時は違う名字であったとか。
「秀忠は関ヶ原の戦いのとき、3万8,000人の大軍を率いていながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。そもそも上田城の兵力はわずかで無視して通れば何でもなかったものを、城攻めをやった上に敗北を喫した(勿論、真田昌幸が相当の戦上手であったという点もある)、そのうえ上田城など関ヶ原の本戦に比べれば大したことはないということがわからなかったということで、秀忠の軍事能力には大きく疑問符が付けられた。」fm web
大河ドラマには武将がたくさんでてくるから、とても混乱してしまう。そのうち秀忠は頭角をあらわしていくようだけれど、いつからか。
「秀忠は関ヶ原の戦いのとき、3万8,000人の大軍を率いていながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。そもそも上田城の兵力はわずかで無視して通れば何でもなかったものを、城攻めをやった上に敗北を喫した(勿論、真田昌幸が相当の戦上手であったという点もある)、そのうえ上田城など関ヶ原の本戦に比べれば大したことはないということがわからなかったということで、秀忠の軍事能力には大きく疑問符が付けられた。」fm web
大河ドラマには武将がたくさんでてくるから、とても混乱してしまう。そのうち秀忠は頭角をあらわしていくようだけれど、いつからか。