印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

アテルイとモレ

2013-03-31 22:14:28 | 日記
昨日阿弖流為の後編があった。
河内の国の植山で処刑された。
といっても、丘の上で杭に繋がれたまま。雨風にさらされて、飢餓死するのであろう。
最後モレが意識不明になり、阿弖流為が話しかけてもすでに意識はなかった。
むつの蝦夷の国に戻ることもかなわず。

坂上田村麻呂が陸奥の国の平定にとおもっていても、桓武天皇の命令で処刑されてしまう。
悔しいと思っても、あやしいと思いませんか。

三年訓練すれば

2013-03-31 21:55:07 | 日記
こういうことがいま読んでいる本にもあった。
潜水艦の見張り員。艦橋に起つ前にはきつと神棚に目礼してゆく。しかも昼より夜のほうが、緊張を要する。昼なら先に発見される怖れはない。マストが低いから。
夜は視界が狭いだけに緊張を欠いたほうの負けになる。

潜水艦の戦いは大半が見張り戦にあるといっても過言ではない。自分には何も見えないが日本人なら見えるようだ。

訓練すれば、潜水艦にきて三年もすれば夜見える。
しかし4日目から目が腫れるには腫れる。
参考:山岡荘八 『海底戦記(伏字復元版)』中央文庫 2000

石の上にも三年  ここにヒントがかくされていた。川柳もいまいち骨法がつかめなくて、こちらは2年たったから、もう一年すれば何とかついてくるだろうか。それに碁。こちらはやっと1年たったから、もう2年すれば。忍耐。

石の上にも三年

2013-03-31 21:33:08 | 日記
俳句の講評はちょうど三年になる。5月から4年目に入る。三年目にして講師の言いたいことが分かってきた。確信はないが、言いたいことはいま、ここ、われにつきる。
今まではスルーしたり、見てなかったり、自分の出来上がったやり方で、それを崩すことはなかった。

よくある風景ですね
そうなんですが感動が無い。具象性がない。
情景はわかりますが。
「や」で切れ字を使っているが説明の句
俳句らしくない
理屈的です。
情況説明です。
俳句はいま・ここ・われですから何を何してどうなったかは詠まない

とにかく一つにこういう言葉の連続で、スルーしていた。
お言葉ですが、あったこともない人に、こういわれて、理解するのは後回しにしていた。それが今にしてすべてが解った。とってもいいことを指摘しているということが理解できた。

その器ではありません

2013-03-31 00:38:36 | 日記
先ほどメールで俳句の講評があった。4頁にわたるもの。もう3年たった。お会いしたことはないけれど。皆さんは前に教室で学習しておられたようだ。

4月はリーダーが用事で欠席される。
何時もセミナールームではこのリーダーが講評をしてくれる。
で、取りまとめしている人がみんなの句を送付するから選評をおねがいしたら
「とんでもない。自分は居る時は、講評しているけれど、その器ではない」
そう言われて頑としてひきさがられる。

上に立たれている人は謙虚な言い回しがすぐにできる。
見習うべきことです。
そのまえもそんな場面に遭遇した。
バスの中でオーナーさんと言われていた時、とんでもないオーナーではないのですがとすぐ否定されて、役目を果たしていた。
謙虚な人って、態度は勿論すぐ言葉にもでてくるのですね。

桜蕊降る東御苑楽しみです

2013-03-31 00:25:20 | 日記
今度4月18日木曜日に別の集まりで東御苑に行く予定にしている。もしこのとき休みだったら大変だから、自転車で通りかかった係の制服の人に聞いてみる。東御苑は月曜日と金曜日が休みだと思う。違うかもしれないから行ってみたら?そういうことで金曜日に聞いたその日は入れないだろうという事情がわかった。

4月18日の木曜日に花散策クラブで行く予定があるのはOKだとわかったからよかった。で、その時には春の桜は終わっている。代わりに桜蕊がみれるでしょうか。桜蕊降るという季語がある。以前5年前くらい前に散策したことはある。秋で萩の花が咲いていた。大奥のあった場所もあった。

東久邇宮稔彦(なるひこ)王首相

2013-03-29 21:03:27 | 日記
戦後の首相というと東久邇宮稔彦(なるひこ)が初めに名前がある。GHQがきたときの時代だ。でも意見の相違があって、かわったようで、あまり知らなかった。吉田茂さんのことは、先日TVドラマであったようになじみが深い。今日の銅像も清水門から入ってすぐにあって、何となく親しみがあった。
近衛文麿→東条英機→小磯国昭→鈴木貫太郎→東久邇宮稔彦
→幣原喜重郎→吉田茂様で、こういう順番で 「ことこすひしよ」(アルプス一万尺の錆びの部分)と覚えてるのでしょう。

吉田茂像

2013-03-29 20:28:28 | 日記
中へ入るとまず目につくのが吉田茂像。
なかには滝があって、烏が沢山いる。散策に良い感じの広い庭園ができていた。
残念ながら、本日は東御苑は入れない。

吉田茂の銅像をみたこととで昨日のことを思い出した。歴代総理大臣を暗記しているという。眠れないときは初めから言ってまたさかさまに言ってそのうちにて寝てしまうようだけれど、

アルプス一万尺でなく、フルネームでいっているようだけれど。
アメリカに比べて、日本の首相は数が多いといっていた。
9.11の時アメリカに行って、サンフランシスコで9.11の事故で飛行機が飛ばずそこに1週間滞在して、ニューヨークで仕事を始めることは、すべて泡となったようだ。いつも仕事でいっていたようだけれど。その人にとってそういうことが歴史となっている。

清水門

2013-03-29 20:09:32 | 日記
池波正太郎なら「鬼平犯火帳」。そして鬼平なら必ず登場する「清水門外・火付盗賊改方役宅」。「先ずは、役宅を探ってみにゃあなるめぇよ。」というわけで、とりあえず地下鉄「九段下」で降りる。
九段下にて、昭和館見学、昭和16年のニュースのビデオをみる。その時代の本を4冊ほど最近読んでいたので、放映していたビデオニュースを最後まで見る。

それからいっきに江戸時代へ。
千代田区役所10Fでランチ…ここは鬼平犯科帳に出てくる役宅があったところであろうか。
それから清水門へ入っていく。
清水門外の内堀通り沿い、役宅のあったであろうあたりには、さくら銀行本店・関東信越国税局総合庁舎などが並んでいる。とても応時を偲ぶことは出来ない。清水濠を渡り清水門をくぐるとこれが江戸だという雰囲気を景色が教えてくれる。清水濠にはオシドリが綺麗な姿を見せていた。

江戸時代ここから中は一般人は決して入ることは許されない。
盗賊改めがされていたところだ。
この辺り、回りをウォーキングしていたけれど、この門を潜って入ったことはなかった。

テレビで隅田川の桜見物が映っている。73歳の長老さんとアナウンサーの若い人が船に乗っている。江戸城から見て、横に見えるのが横川、縦に見えるのが縦川と言っている。江戸城中心に世界が動いていた。

スンガリーのほとりの哈爾濱

2013-03-28 10:17:37 | 日記
哈爾濱にいってきた知人からマトリョシカの根付けをもらった。同じころハバロフスクでマトリョーシカの人形を買ってきた。哈爾濱にどうしてロシア人がいてたのだろうと気になっていた。思わず読んでみたなるく本でもあった。

満州で奉天、大連についで三番目に人口が多かった都市が哈爾濱である。
敗戦時の満州には、およそ1100の開拓団
22万人の開拓農民 10万人の青少年義勇隊がいたと言われている。
これは在マンの日本人155万人のほぼ2割といわれる。

ハルビンは19世紀末スンガリー(松花江 スンホワジャアン)の河畔にロシア人が作った街
スンガリーはアムール河、ウスリー河をへて日本海に面した軍港ウラジオストクに繋がっている。
鉄道開通以前はロシア人はこの港から船でハルビンへ往来していた。
「ハルビン」は昔から呼ばれていた地名。語源は諸説あり。中国語「干し編み場 ハハルビン」、女真語「栄誉アルオジン」、ロシア語「大墳墓ハオビン」、蒙古語「平坦な土地」
ロシア語「XAPbNH」日本人は濁音より清音でハルピンとくせで読むが「ハルビン」一般的。

戦時中は中国人が圧倒的に多く、権力は日本ががにぎっていたが、「ロシアの街」「ヨーロッパ的な都市」と形容されている。

哈爾濱に行ってきた知人から貰ったマトリョシカの謎がとけてほっとしたところ。

哈爾濱はロシア語と中国語が必需品

2013-03-27 17:05:53 | 日記
p79 「ダワイ(出せ)」
p83  「クーシェ」 食べなさい
p84 「ニエート ちがう」
p106 「多少銭 トウオシャオチェン」「300円 サンバイイエン)
p124 「道外 タオワイ」「傳家てん フウジャテン」「太貴了 タイクイラ」
p106 「スコーリカ いくら」「ドバーシチ 200」
p162「チェンビン(煎餅)
p193  「ドラースチ(コンニチワ)」
p193 「再見(ザイチェン)
p216 「天地内有了新満州 (ティエンティネイヨウラ シンマンチョウ 人民三千万(レンミンサンチェンマン)」
ほかに「ダスビダーニャ さよなら」があったけど、どのページか分からなかった。

スンガリーのほとりに

2013-03-27 16:08:47 | 日記
この本をみていて当然のようにスンガリーと言う言葉が気にかかる。
嫩江(のんこう、Nenjiang)というのも。
スンガリーはロシア料理店?
松花江(しょうかこう、拼音Songhuajiang)のことでどうも日本人がスンガリー川と呼んでいたのかな?



1931年の嫩江鉄橋の戦いとはこのスンガリーの支流の嫩江(のんこう、Nenjiang)なのでしょうか。
少し調べさせてもらいました。
スンガリーはとても大きい川でその支流が嫩江(のんこう、Nenjiang)で湿地地帯で、自然が豊富で渡り鳥の丹頂鶴など渡り鳥の出発点であろうかとも。
川が汚れてきて、ここの自然保護に密かに取り組まなければいけないところかとも。景勝地であるのでしょうか?

大河スンガリーはアムール川の支流である。アムール川の支流にウスリー川もあり、その支流にビキン川があり、そのビキン川が去年訪問したところ。同じようなところであろうかとも。

満州体験の人たち

2013-03-27 14:32:44 | 日記
この本は2008年に出版されている。引き揚げ者のことを書いている本はある。おびただしい数の本が出版されている。以前昼のTVドラマでもあった。実際葫蘆島から小学生の10歳で引き揚げ船で帰られた人の話を聞いたのが2009年。長春からひきあげる途中で生まれたという方から話を聞いたのが2010年。長春から北朝鮮の漁船で引き揚げたという方から話を聞いたのが2011年。さらに去年2012年3月に葫蘆島から引き揚げた話を新たに聞いた人がいる。

満州というところは総面積およそ130万平方キロで現在の日本の3.4倍、仏独伊を合わせた面積よりも広いこの王道楽土の大帝国は、関東軍の陰謀によってわずか半年間で誕生し、たった13年で崩壊した。

人口3000万の満州を、たった20数万人の日本人が支配できたのは、ひとえに関東軍の武力があったからだ。満州事変(宣戦布告すると中立国からの軍需資材の輸入がのぞめなくなるから、戦争ではなく事変と命名した)における死傷者は1199人だったから、日露戦争のわずか100分の1の犠牲者で、日本は満州全土を手に入れたことになる。

皆の体の中に「必勝の信念」が全身に棲みついていて簡単に追い出せない。それが愚かなことをしてしまった。戦争は酷いことです。いまでもそういう出来事に嵌っているかもしれない。否定することができない体質みたいなものが。

中学生の満州敗戦日記

2013-03-27 13:53:48 | 日記
昨日読み終えた。サッカーの対ヨルダン戦を見ながら読んでいた。これに勝つか引き分けれでばワールドサッカーブラジルに出場できる切符を手にすることができる。大事な試合だ。キックオフは11:00。マンUの香川選手はイギリスから専用便でヨルダン:アンマンに来ている。選手の負荷を最小限にするため。本田と長友は怪我の為でない。ラモスさんはTVで負けては日本に帰れない覚悟で試合をと朝のTVで言っていた。

でも、本の方も読みだして3日目だから、まあ最後まで読み終えたかった。サッカーの前半45分までに読み終えたから、後は後半をTV観戦した。アウエーでの光線ビームを顔に目に受けながら、遠藤のPK、川島のGKもビームを顔に受けながら相手のコーナーキックを受けていた。2:1で負けてしまいましたけれど。次はホームでオーストラリアに引き分けでいいという。ヨルダンも2位獲得が必至であったから大変な試合だった。

この本は平坦な中学生の目線で書いているけれど、とても読みごたえがあった。
哈爾濱の冬はハバロフスクと同じくらい寒い。-40°になるという。日本人は棲めない。瀋陽にも日本員は棲めないと大連にいったとき大連の中国人から言われた。一番初めに大連を訪れた時は12月初めだったけれど、寒くても大丈夫だった。行く前は不安だった。けれど、長いコートを着ていれば大丈夫だった。道路は凍土だったけれど、滑りにくい靴で大丈夫だった。けれど、中国人から言われた。日本人は顔はおなじだけれど、靴ですぐわかる。その人は軽い夏でもはけそうな靴ですいすい歩いていた。そういえば印度のヒマラヤでも地元の人はビーサンですいすい歩いていましたね。

異様な妄想に駆られたわが国の軍人たちが、赤の他人の国にでっちあげた奇妙な植民地、満州。1931年生まれの著者は、国民中学生として家族とともに敗戦1後までの9年間をこの奇妙な植民地第3の都市ハルビンで過ごした。その体験を書いている。
体験は読みごたえがある。おじいさんから聞いた話などと違っているから。

もしも家をたてるなら

2013-03-26 11:30:10 | 日記
家というのは大変厳しいものがあります。人生で何回も失敗してかえるものでもないし。先日宍戸譲さんの立派な家も一夜にして火事でなくなり。家と職場が津波で流されたり。今日もTVで除染がすすまず、福島で立ち入り禁止で鉄柵が閉まっていました。鍵がつけられて、みなさん10年以上かそれ以上家に戻れない。なかには当時の洗濯物が風に舞っていた家も映っていた。そこには立派な新しい一戸建ての住宅が並んでいた。

そんな中で住宅展示場の家はとてもかけ離れたものに見えるのですが。今の状況ではどうなのでしょうか。家を見るのが、ありのまま冷静に最高の技術の粋のものをみているとしたら、それも面白い。

耐震、耐火の面から言えば、パナホームとヘーベルハウスでは耐震性は同等、耐火性は明らかにヘーベルハウスが優ると思います。

私の持論では、家の満足度の7割は土地で決まります。各HM、一長一短があるのですが、自分が見つけたお気に入りの土地に合った特長のHMが一番いいのかとも。雨風凌げればそれが一番かとも。

敢えて言えば、都心でお隣と密集する地域に建てるのであればヘーベルを選ぶでしょうし、ある程度敷地にゆとりがあれば、パナホームのキラテックタイルのきれいな外観を楽しみたいと思います。(ありえませんので笑)

展示場ではへーベルは3階建てでした。ヘーベルはちょっとブロックブロックしてるという意見がありますが。完成していないから、ビニールがかかっていますから、全体が見えません。出来上がったら見てみたいです。3階建てでもヘーベルでしょう。条件が拮抗するなら、営業さんとの相性でしょうね。もっとも展示場では素通りして、最後の曲った角のへーベルだけ気に入って営業マンのかたが近付いてきて、寄ってきて、話してみただけですが。

上り框に並べたスリッパ

2013-03-26 11:05:54 | 日記
この住宅展示場は正式openは4月20日。土曜日。
今回は風がびゅびゅー吹いて、肌寒い中全館工事中で、外壁もまだできてる途中で中はまだ鉄骨がむきだし。

営業マンはいう。今なかなか見られない構造がみれますよ。お入り下さい。とスリッパが4つほど上り框に並べてある。
今回はあまりしつこくないですが、4月20日は勝負だと思ってしつこいでしょう。アンケートに書くとたいへんですよ。何も書かなかったから大丈夫です。

営業マン、そりゃ、行きますよ!営業は、真剣勝負だと思ってますから。
よく、アンケートに住所を書くとTEL掛けられたり、家に来られたり困るんですよって言われるけど、何処のどなたかわからない人と何の話をするのって感じです。

住所とか書いても心配しなくても買う買わないとは、別ですよ。とはいっても、しつこいですから、話しに乗ってしまうとプロの営業マンは講習うけていますから負けますね。会社も広告費を掛けてやってるから報告もきっちり訪問した客から取ってくるんですよ。上司に報告書というか、営業結果を提出するでしょうから。
だから、最初に見られるときに営業にハッキリ言うほうが良いと思います。何人かで待機してると順番なんで大変なんですよ。土・日・祝が勝負みたいなもんですから。

先日も4人ぐらいどのハウスにも待機してました。黒いスーツ姿で。見たいけれど振り切って素通りするのが精いっぱい。その気がないのですから。