先日飯能から竹寺にいったとき、寺名は八王寺で、お寺のようであったが、鳥居もあった。茅の輪くぐりもあった、牛頭明王像もおおきな厳つい恰好をして鎮座していた。本来ならは竹寺は結願寺であるので最後になるのだが、12月1月は山眠る季節となり、訪れることに難儀する。それで先に訪れた。八王寺は明治元年の神仏分離令にもれたことで、お寺とお宮が同居している。江戸時代は人別帳作成のために、お寺が幅をきかせていた。ときいている。日本全国の人の管理のために、全ての人々をお寺の檀家にしたようだ。
それでそれまであったキリスト教も踏み絵で選別して、改宗させたようだ。それで、神仏合体させたのであろうか?今は巡礼で寺をまわっているけれども、現地にいってみて、そこにかかれている、看板などをみると、初めて認識することにであう。
竹寺から、巡礼のように山道をすすんで、子の権現につく。天龍寺というがここには檀家をとってない。と書いてあった。しかしさびれてなく、りっぱな寺であった。鉄のおおきな草履も寄付して供物としてあった。おおきな真かっかに塗り上げられた仁王像もずしんとたっていた。敷地もひろく、眺める景色も抜群であった。数年前に来たときにはなかったという、来客用の立派な屋根付きの大きな駐車場もあった。ここをとおらないと下におりられない。もちろん住職の住居も崇高な生活ぶりを思わせるものであった。登山者が通る道が回り道なのが気になった。回り道に気付かず、竹寺から続きの道を通りました。そこは違っていたのでしょう、無視に遭いました。その方が納経帳を書く方でした。人間味を感じました。住職のかたがあちらのほうが、紅葉がきれいですよといってくれたのにも、人間味を感じました。
それでそれまであったキリスト教も踏み絵で選別して、改宗させたようだ。それで、神仏合体させたのであろうか?今は巡礼で寺をまわっているけれども、現地にいってみて、そこにかかれている、看板などをみると、初めて認識することにであう。
竹寺から、巡礼のように山道をすすんで、子の権現につく。天龍寺というがここには檀家をとってない。と書いてあった。しかしさびれてなく、りっぱな寺であった。鉄のおおきな草履も寄付して供物としてあった。おおきな真かっかに塗り上げられた仁王像もずしんとたっていた。敷地もひろく、眺める景色も抜群であった。数年前に来たときにはなかったという、来客用の立派な屋根付きの大きな駐車場もあった。ここをとおらないと下におりられない。もちろん住職の住居も崇高な生活ぶりを思わせるものであった。登山者が通る道が回り道なのが気になった。回り道に気付かず、竹寺から続きの道を通りました。そこは違っていたのでしょう、無視に遭いました。その方が納経帳を書く方でした。人間味を感じました。住職のかたがあちらのほうが、紅葉がきれいですよといってくれたのにも、人間味を感じました。