印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

侍と坂の街佐倉

2014-12-10 21:37:33 | 史跡巡り
佐倉にある佐倉高校は梅ちゃん先生の梅ちゃんが医学生になったときの大学の舞台となった
この佐倉高校は当時のまま今も現役でとして使用されている、
有名な長嶋元巨人監督の~で有名であります。
11月30日だけは中も見学できると案内してくださった教頭先生が言われていた。

武家屋敷は坂の上にある
さくらは坂がいたる所にある。
メイン道路におりるのに、集中して坂が13個も地図に載っている。

いったんこの迷路に捕まると、文句なしに、右往左往しても出口が見えない。
見えた時は坂の天辺にでている。
お侍さんどうやって、ここから少し離れた城に出勤するのに迷うでしょう。大変な迷路と坂となりそうです。
殆どが迷路と坂ですもの。

天嶽寺の珍しい朱色2階建て山門

2012-12-30 15:23:47 | 史跡巡り




朱塗りの一風変わった2階建ての山門です。この奥の左手の墓地には、越谷吾山の供養墓石もあります。
真ん中に上の梁をかかえているかわいい姿に目が映りました。

天嶽寺(てんがくじ)は久伊豆神社の隣にある。文明(1478年)開山と伝えられている。
その後小田原の後北条氏の城砦に用いられた。始めは北条氏から15石を寄進される予定であったようだけれど。勝負はたいへんです。今回の選挙の玉突きの結果の勝利をきにしてしまいます。
小田原の陣で北条氏は滅亡。家康公が関東に入った後、天正19年(1591年)15石の寺領を寄進の朱印状が交付されている。寄居の鉢型城も北条氏の城で、この辺まで北条氏は範囲を広げていたのですね。鐘撞き堂山の鐘はもちさられて、豊臣軍に滅亡されたというけれど。

寺は誰のもの?その時代の統治者からあたえられているのですね。昔は土地は個人で持てなくて、武士の世の中になって、褒美にもらったりしているから、今の思慮の範囲から想定できないから、こういうのときどき俳句の会で話題になってくる。

そして家康と2代秀忠と3代家光が鷹狩の後ここにもよったという。それにしても珍しい2階建てで朱色の山門でした。ここにspotを当てたいと思います。

神社の楽しみ方

2012-12-30 14:21:06 | 史跡巡り
家に帰って香取神社のHPの境内mapをみた。そこに見つけた。この狛犬は宝暦(1754年)。この神社で一番ふるい狛犬だと書かれていた。258年前の多くの人々が見届けていた狛犬だ。

このあたりの時代からから、ここの神社は人々から愛されていた神社ですね。狛犬は寄進により、成立する。越谷は親しみがあるなー。意識してみると越谷は素晴らしい所です。
この神社には狛犬がいくつもある。それぞれの時代で寄進されて愛されていたのですね。

以前神社の楽しみ方を、思い出して書いている。その神社の成り立ちや、敷地の中の配置を調べている人から聞いたことがある。時空を超えたものが見つけられる。多くのものが発見されることに夢中になっていた。浦和の調神社の奥の方にある建物にウサギの透かし彫りが読み取れた時に、満足した気持ちになった。

解体された越谷御殿

2012-12-30 14:03:00 | 史跡巡り
蛇行する元荒川の舌状の突端部分の川縁を散策する。川にはカワウが二羽黒い鳥影を披露してくれた。思わず見とれる。リアルタイムで見る風景は肌に温もりを伝えてくる。

その後44年が経過したのちに、江戸に大火があって、江戸城は全焼した。これが有名な明暦の火事、いわゆる振袖火事。それで上野広小路に歓楽街ができて、庶民の食べ物やさん飲み屋さんができて、先日焼き鳥を食べに行ったところ。この事実とつながった。タイムスリップしてここを歩いている気分だ。


そして越谷御殿は解体されて江戸城二の丸の仮行居館として移設された。この二の丸今はどうなっているのでしょう。見てみたい。

越谷に御殿場町として地名にして後世に残したのはすごいですね。越谷住民はすごい。築地に小田原町がのこっているけれども、これは築地になってしまっている。昔の名前は新しい現代風の名前にかわっていっている。このあたりが、切ない。

家康と何もない越谷御殿跡

2012-12-29 14:14:57 | 史跡巡り
香取神社を後にして、国道49号線を南にいくと、川にぶつかる。元荒川である。昔はこれが荒川で、後に荒川をつくったから、これが元荒川という。そのさきには古利根川があるのだけれど、利根川がほかにできたから、これは古利根川というそうだ。

越谷御殿(埼玉県越谷市御殿町)は、元荒川が蛇行し、舌状の突端になった地にあり、 久伊豆神社の対岸に位置する。徳川家康は慶長七年(1602)奥州道を公道に指定し、越谷宿を取り立てた慶長九年(1604)には増林にあった御茶屋御殿を越谷郷土豪会田出羽資久の敷地内(元荒川べり)に移し、壮大な御殿を建造したのであるという。今から408年前の出来事である。

どこにあるの?ときいても案内してくれた人はどこにもないという。御殿の面影を偲ばせるものは何も残っていなかった。久伊豆神社前の元荒川べりの一角にあり、当時、その面積は六町歩(約6ヘクタール)あったという。ここに徳川家康が鷹狩に来ていたという。そしてその休憩所として越谷御殿がたてられたのである。人々に語り継がれる『御殿町』という地名にその名を残しているだけのデータをつきつけられたのだ。川べりに石でできた板碑が立っていた。

宝暦時代の古い狛犬

2012-12-29 13:57:46 | 史跡巡り

一通り見て、参道を逆に出る。手水舎で手と口を清めてから参道の出口へ行く。と、本当はここは参道の入り口にあたり、先に手水舎で清めるのですが逆になってしまった。ごめんなさい、神社さん。

そこで古い狛犬にであう。彫が朽ちかけていて、後ろ足は細工は無く、そこまで細工する発想はなく、引っ付いたままであった。手順がないという感じ。

稚拙なつくりではあるけれど、可愛らしい顔をしている。本当に古い風情がある。人々を引き付ける魅力ある狛犬だ。台座にはやはり年代は記入されてなかった。気になるところだ。誰かがいっていた、宝暦時代の狛犬だと。何かに書いてあったのを見たという。なにかとはなんじゃ。




北越谷

2012-12-29 12:23:23 | 史跡巡り
東浦和をまっすぐ車で行けば元荒川にぶつかり、この土手はさくら並木がびっしり続いています。桜の季節はすごく賑わっていて、土手に敷物をしいて、お花見をしている人を見かけました。一度見に行きました。10年ほど前の事ですが、友人の実家が越谷で、よくこの桜のことを言っていたので。

久伊豆神社の入口のあたりにも元荒川は続いていて、そこまで桜並木は有りました。

車で行くと家の近所のコモディ飯田の前の463号線をまっすぐ行くと4号線にぶつかり、さらには元荒川にぶつかり、さらに北越谷につく。6㌔くらいかな。

鉄道で行けば東浦和→南越谷乗り換え→新越谷→北越谷
少し面倒だからよりついてなかったけれど、江戸時代鷹狩に来た場所で、元荒川沿いには越谷御殿跡もあり、板碑もある。


両足を縛られた狛犬

2012-12-29 01:05:58 | 史跡巡り
久伊豆神社の社殿のすぐ右手にある狛犬ですが、狛犬に罪はないのに前足が麻縄で縛られています。家人が家出をしたり、悪い所へ通わないようにとの願掛けの狛犬です。悪いところに行った人を連れ戻す効果もあるそうです。家出をしたり悪所通いをする者に対して、家族が狛犬の足を結ぶ”足止め”をすると必ず帰ってくると言われていました。

誰かが麻縄でなくchainでまいてなくちゃーなんて冗談をいってましたけど
始めにいった北越谷駅歩5分でいける郵便局隣の香取神社でも、麻縄でしばった狛犬ありました。何かなーとおもっていました。そうそう香取神社にも力石ありましたね。力石は久伊豆神社に立派なものありました。その時代のはやりなのでしょうか。

久伊豆神社の年の瀬の表情

2012-12-29 00:42:55 | 史跡巡り
越谷の久伊豆神社にいってきた。徳川将軍家代々の厚い保護も受けてきました。除災招福、開運出世祈願の神社として有名です。

境内は新年を迎える準備で忙しそうにしていた。意外なほど参拝者が多くて、氏子が今年の飾り物など紙袋からはみ出るように見せていれて持ってきていた。お祓いをしてもらうのかしら。
また参道には場所どりに書かれた的やの名前が書かれて貼られていた。さまざまな的屋が店の設営の準備をしていた。テントを張って、板で台ををつくり、たぶん焼きそばやリンゴ飴やそういう類の店の設営だろう。15軒ほど。まだ空地のままで来てないところもあった。明日から賑わうのでしょう。こんな身近なところでこんな立派な神社があったとは驚きです。

歴史は、古く、平安時代の長久・寛徳(1040-1045年)の時代に遡ります。
この神社は、江戸時代は、徳川家代々の将軍の信仰が厚く、神紋は、葵の紋を縦にした立葵(たちあおい)です。近くに、鷹狩などを行なうときのための越ヶ谷御殿があったことから、特別に葵紋の使用が許可されたものと考えられています。

舎人小学校の歌

2012-11-04 12:57:41 | 史跡巡り
現在どうあるべきかを歴史がみてくれる。

見沼の歴史を調べる会の会長さんが、舎人の歴史の会にお声をかけて、それを受けての、この講演となったようだ。この方の見沼代用水(地図では淵江用水と昔の文字で書かれている)で8割潤ったと言われていた。舎人の人は初めてさいたまで講演ですと言われていた。見沼の会長さんは素晴らしい人を見つけられました。

最後に「舎人小学校の歌」を披露してくださいました。昭和38年制定その歌詞のなかに見沼代(しろ)と言う文字が入っていた。永井鱗太郎作詞、外山雄三作曲でふたりともかなり有名なかたといわれていた。
その作詞者の解説も載っていた。

「緑一色といってよいこの郷土に、そのむかし私たちの先祖は偉大な事業を完成させました。それは見沼代用水であって、これこそ先祖たちの長い間かつぼうしていた夢の実現だったのであります。
用水はその流域にゆたかな水量を恵み人々に幸せを届けました。以下略」

本当にこの用水に見沼と名前はのってなかったけれど、見沼用水だと理解している人がいて、この歌詞にあらわれていて、継承されていくことに、感銘しました。校歌の歌詞って大事なんですね。ご先祖さまのおかげで自分達がいるのです。

舎人からみた見沼用水

2012-11-04 07:27:07 | 史跡巡り
■足立区の用水・新田等関係年表による、と文化3年見沼代用水高張(石高) 約10,346石と表にのっている。
寛永6年
■鳩ヶ谷絵地図によると、元禄8年(1666~1695)見沼用水→淵江用水堀 とのっている。

■見沼用水は埼玉年表によると、寛永6年

淵江は足立区の右半分とみられている。左半分が舎人であるけれど。
花井家蔵の毛長堀古図が添附されている。
その地図によると、淵江用水大井堀とのっている。文化年間にかかれた地図でこれが見沼代用水だろうと言われた。というよりそうでしょう。

江戸時代徳川家康の時代になって、江戸の人口がふえつづけ、その年貢米などにおわれ新田開発の必要性がうまれたのだろうか。

舎人には見沼代用水という名前が見当たらないという。

舎人の人

2012-11-04 07:02:16 | 史跡巡り
文化文政の時代に舎人の人々は300人いて、昭和の時代にも同じ人数で、見沼の事をきいても、知らないというそうだ。
それで昭和30年になったころはその頃のことをしっているひとも100人になってしまって、さらに知らないとなっている。資料もわからない。苦労している。そんななかでのせきららな内容の講演だとおもった。
殆ど資料がなく、
昭和43年当時人口500~600人。昭和57年文化かいが立ち上りまだまだこれからで、
どうして見沼という名前が資料にないか?わからない。
反省というより、これからが出発点だと言われていた。


昨日の見沼アカデミーは舎人の人からの講演だった。
昭和25年舎人生まれだと自己紹介していた。
学校教育を理解してくれない、特に祖父母で、88夜手間がいる農作業には人でが大事で小学校にもやっと出させていただいた。と謙虚にいっていた。

バーナードリーチ

2012-10-27 11:02:24 | 史跡巡り
昨日史跡巡りで東大駒場前でおりて、東大でランチして、駒場公園で旧前田侯爵家洋館のガイドさんの見学が2時から予約してあった。その前の時間13時から日本民芸館の見学時間があった。35人いて、5人は帰って、残り30人だけれど、ここの見学は8にんだった。だから1000円の入館料となった。(800円のはずだった…団体)

パンフレットにのっていた、リーチの山羊の陶器画(径44㎝のお皿)がとてもみたくていったのですけれど、展示してなかったのでとてもがっくりした。お客さんのひとりから、よそに貸し出しされていることを聞いた。ここの所蔵だからいつかは展示されるでしょう。2階の第1室に。そこは陶器が展示されている。

バーナードリーチ展は今年8月から9月10日まで日本橋高島屋でやっていた。そのことを今知ってとてもがっくりしている。「10日の菊」の気分だ。すべて後手になってしまってがっくりしているところです。9月8日には銀座にいっているので、知っていれば見れたのにな~。リーチさん生誕125周年だとのこと。今はしなものが移動して、10月31日水曜日から11月11日まで京都でやっている。京都までは追っかけできません。

バナードリーチさんは香港で生まれ、幼少を日本ですごし、その後、英国で美術を学び、22歳で日本に再訪。エッチングを教授するうちに、柳宗悦氏と知り合う。この柳さんが日本民芸館の創立者。だからこの「山羊のお皿」もここにあるようですが、いまはどこかに貸し出ししているらしい。

バーナードリーチさんは柳さんにであって、「日常生活の中で芸術をとらえる視点をもちます」とバナードリーチ展のパンフレットに記載されていた。webからパンフレットをだしたのですけれど、パンフレットで我慢。柳さんは知識で物を見るのではなく、直観で見ることが何よりも肝要であるというしてんから、この民芸館の説明書きが意識的に少なくしてある。

義士の墓

2012-07-03 00:54:44 | 史跡巡り
摩天楼の都会の一角に泉岳寺はある。そして義士のはかがきれいに整列いる。墓の文字は戒名として、刃の字と剣の字。自刃した場所は4か所に分けられて違っている。それぞれわかれてあづけられた。大名の屋敷に。上屋敷、中屋敷、下屋敷など、数人ずつにわかれて、

墓を見れば、一人ずつ物語が浮かぶ。いつのまにかその話は日本人ならみんな知っている。
「この墓は一番わかいひとで、お父さんの代わりに~」「あー昔舟木一夫さんが大河ドラマでやった、矢頭えもしちでしょう」「みんな役になった人で覚えてるよね」
「この墓の人は賭場で揉め事になってはたいへんだ。大事な仕事の前だから」「あー有名なまたくぐりの話でしょう」
「これは大高源吾、当日其角さんと会って~宝~」「年の瀬や、水の流と人のみは」「明日またるるその宝船」「ピンポーン}

数百年も昔、人間が味わった喜怒哀楽の「追体験」をいまここで味わっている。そして深い感銘をうけている。
過去の人、文化も歴史も違うのですが、感情移入し、自分の心を重ね、ともに笑ともに泣くこの不思議。

揺さぶられていますね。分からない。だからこそ面白い。

脱走はルール違反

2012-07-02 11:52:21 | 史跡巡り
途中からすーっとリーダーと同じはんのひと全員が逸脱して消えた。コースから外れて向こうへいった。まるで脱走兵のようだ。他の人はなにもしらない。列に続いて田町の駅へ廻って歩いている。同じパーティで山だったら、安全は確認できません。保険もかけてないでしょうし。

西郷さんと勝海舟さんの会見の碑がある。そこでガイドのように説明している。何人か聞いてなくて、質問してくるので、3回くらい説明している。それから近くの公園で解散宣言をして、水族館にいくひと、喫茶店にいくひとなど、三々五々にわかれる。50人の御一行なので途中で10人消えたことも目立たない。ここに居る人は事情が呑み込めていない。

脱走者は掟破り。コンダクターツアーではありません。仲間なんだから。
脱走するときは断っていった方がいいね。参加者に挨拶して。そういえばハイキングでもこんなことありましたね。先行して突っ走った人4人、道を間違って、方向違いのところに行ってしまって。携帯電話で解散宣言してました。今回もそうだったのかしら。ハイキングは保険かけていたのかな?