印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

高木屋でおでんをたべて

2013-10-31 23:46:26 | 川柳
のんびりして参道で御団子をたべてかえろうとなった。
『寅や』かたや『高木屋』が寅さんの映画にでてきたところだよ。

ここに子供時代を過ごした人が「まっすぐ行って右に入る」
指示を出してさっさと先に行きだした。のであえて逆らわず、それに続く。
寅やの人が呼び込みしていたけれど。

高木やは寅さん映画の場面そっくりで、入口でそれぞれお金を払って注文する。
団子セット、おでんセット。ところてんなど

ゆったり過ごして、
らすとおーだー16:00となっていた。
店やはしまうのが早い。
どの店も、黄色の大輪の菊の花にが鉢植えで飾られていた。

矢切りの渡し

2013-10-31 23:31:36 | 日記
それから江戸川堤をくだって、矢切りの渡しの方に行く
3時くらい
人が乗っている舟が一隻、向こう岸の方に見える。去年松戸の方にいったとき、雨が降っていて、渡し舟は休みだった。

岸に看板が出てじが書いている。16時で終わりです。
向こうの舟はなかなか戻らない。
時間があるからTさんが折りたたみ式の尺八を吹いてくれた。曲は矢切りの渡し。
終わっても舟はこない。完結のない時間制限。
皆予測がtかない物を待つのがつまんなくなって、帰ってしまった。残りは6人。
それに他の人が、10にんくらい。寅さんのかっこうをしたひともいる。東洋館で舞台にでているプロの漫談家。


「川甚」という料亭だった

2013-10-31 23:17:24 | 川柳
一連の句会がはやめに終わり、というか終わらせて、矢切りの渡しに行ける時間がとれた。それで初めはみんなでぞろぞろ江戸川の方へあるいていく。すでに4人は駅方面に行って帰られた。

江戸川のほとりに川甚という料亭がある。
寅さんの妹さくらと博さんの結婚式の場面にでてくる。

友人が会社にはいったとき、新入社員は4人一組でボートを漕いできて、この川甚まできたという。全員ここで食事をしたか、泊まったか?懐かしくその当時を話す。

その当時は江戸川の畔にあり、川から船で直接お部屋へ上がってったという。

文学にもこの川甚はよくでてくる。漱石、尾崎士郎、谷崎潤一郎 …
この長閑な雰囲気いいですね。


・ 松本清張『風の視線』より

車はいまだにひなびているこの土地ではちょっと珍しいしゃれた玄関の前庭にはいった。
「川甚」という料亭だった。


帝釈天界隈 

2013-10-31 22:55:16 | 川柳
柴又の帝釈天参道をそぞろ歩いて、商店街を眺める。柴又帝釈天をお参りして、日本庭園と日本家屋と彫刻ギャラリーの拝観券を20名以上の団体300円でみる。一人先に単独行動で400円で入って行ってしまって、のこり21名で団体割引で入る。

それから柴又公園に登って、エレベーターでおりて、寅さん記念館。入口で寅さんの残された雪駄が一個迎えてくれる。

寅さんミュージアム。
幹事さんの下見されたコースを歩く。


法華経の絵解きの彫刻

2013-10-31 07:27:42 | 川柳
因みに大正十一年、まず加藤寅之助師が「法師守護の図」を完成したが、師の発案によって残りの九枚を東京在住の名人彫刻師に依頼することが決り、大きな欅(けやき)の彫刻材が各師のもとに運び込まれた。 しかるに 大正十二年、折からの関東大震災に遭って彫刻材を焼失したのである。そこで新ためて、欅の彫刻材を全国に求め、昭和初年ようやく巨大な欅材を得て、本格的な彫刻工事が始められたのである。従って、得難い彫刻材と言い、木彫技術の点についても希有なもので、文化財的価値の極めて高いものである。
 彫刻下絵は,法華経の絵解きの図を参考にして、高山英洲師が描いたもので、独特の構図を示している。

I先生の伯父さんは毎朝でかけていたという。
石川という彫師のなまえはふたつあり、石川信光、もう一つは石川銀次郎。
少年の頃は、そこが遊び場となっていて、そのときは周りに金網なんかはなくて、気軽に見ていたという。勿論無料。

その後周りに金網がはりめぐされた。有料となってしまって。今はなくなっていた。ガラス張りの見物用の回廊が出来上がっていた。

帝釈天彫刻ギャラリー

2013-10-31 07:18:20 | 日記
帝釈堂の内外には、数多くの木彫がほどこされている。
特に帝釈堂内陣の外側にある、十枚の胴羽目彫刻は仏教経典の中でも最も有名な「法華経」の説話を選び出して彫刻したものである。

そのなかに、I先生の伯父さんの彫刻があるという。
今回の吟行はそれが大きな目的でもあった。

毎日伯父さんは彫刻のために家を出て帝釈天に彫にいっていたという。
そのなかのどののかたかははっきりしてないけれど、石川という名はふたりいた。ひとりは石川銀次郎。おじいさんの名は覚えていて、鉄太郎と言っていたそうでおそらく、銀次郎がそうかなーと歩きながらいわれていた。

そういう関係で我ら一行22人は一つずつ格別丁寧に鑑賞したしだいである。

 この法華経説話彫刻は、当山第十六世観明院日済上人の発願になるもので、篤信者鈴木源次朗氏の丹精協力を得て、大正末期より昭和九年に至る十数年の歳月を費して完成したものである。

目黒のらかんさん

2013-10-29 00:53:24 | 日記
目黒のらかんさんである五百羅漢寺で住職がガイドをしてくださる
本堂でひとしきりお話がなされ、そのあとお焼香がしてもよい雰囲気
それで数人お焼香したので、自分も、

列が乱れて、after you の雰囲気でどうぞといってさいごに
みんないってしまってさいごのひとりになってしまったけれど、
住職の方に高野山にいって、天璋院に泊まった時の、朝のお勤めでのお焼香のお話をした。
ひとつ気持ちが軽くなった。

五百羅漢寺は単独の宗派ということだった。
その五百羅漢のひとつひとつに言葉がある。
綱吉さんから立派なことだと言われて許されて寺ができたという。

そのことばがひとつひとつ心に響いてくる。
あまりにも素敵な言葉の数々に感動してしまう。

らかんさんの一つ一つ言葉が書いてある本を購入して、毎日読むことにした。

蛸薬師成就院

2013-10-29 00:18:39 | 日記
金曜日は目黒界隈の歴史とアートと古刹と
つまりが緑園と建築美と古刹
そのときに目黒の成就院にお参り。

江戸時代、保科正之の母が納めたというお寺にお参りした。お寺の横に大きな仏頭が置かれていた。なぜなんだろう。こんな大きな、美しい顔の仏頭が?

保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代初期の大名。会津松平家初代。信濃高遠藩主、出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。

この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室 お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長16年(1611)に男子「幸松麿」が授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院の威勢をを畏れながらもその恙ないご成育を祈り3体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いが叶い、また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。
 元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩のみちすがら、当山に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。
ーーby google

ここにある7体のフィギュアはお静のかたが納めたもの。2代将軍秀忠の時代の出来事。
師越前大河ドラマお江の時代。
こんなところに保科正之ゆかりのお地蔵様が
見性院のお墓が東浦和の駅に近いところの墓地の中にある。
また高遠の桜は諏訪の7年ごとに行われるお祭りの帰りによったところ。
歴史がつながって江戸時代の人間関係がつながっていくところが面白い。

御朱印

2013-10-29 00:04:54 | 日記
残念ながら金剛峰寺と奥ノ院の御朱印は頂いてなかった。
それから何故か御朱印が欲しくなり、まずは宿坊の天徳院を去るときに高野山の第一号の御朱印を賜ることを決心した。バスに乗る前の5分ほどの時間をとっさの判断で拝借した。目の前で手書きで書いてくださった。
御朱印帳はここから興った。

それから、熊野本宮大社、熊野速玉大社 熊野那智大社 の熊野三山
青岸渡寺は西国三十三か所の一番の札所として、御朱印を頂いた。直筆で。
もうここまでくることはないでしょう。

御朱印を一度に6個もいただいた。天徳院では朝のお勤めで南無大師遍照金剛を唱和した。お焼香を全員がした。このお焼香が後で自然にやくにたつときがくるとはその時は思っても見なかったけど。

紀伊風土記に信長さんの墓の事でていた

2013-10-29 00:01:34 | 日記
そういうわけで身代わりのお守りもかったし、今でしょ、聞くのは。

「こんなことお聞きしていいのでしょうか?信長さんのお墓何故に…?」

「そうですよね。お寺は焼き払うし~、あんなにたくさんのお坊さん殺してですよね。事の次第は昭和45年にお墓はみつかったんです。紀伊風土記がみつかって。それに江戸時代に信長さんのお墓が作られたことが書いてあって、みんなで探したら見つかったということですよ。みんなは当然信長さんの墓は無いものと思ってましたから…、」

何と気さくに答えてくれた。案ずるよりは…という。
そうだったのですね。聞けて良かった。胸のつかえがとれました。

奥ノ院の階段

2013-10-28 23:51:11 | 日記
奥ノ院の階段おりかける。
それまで写真禁止で、おしゃべり禁止、できていた。
ガイドさんここがview pointで上からまっすぐな杉林の中の風景写真とってもいいですよ。

It hasn't finished Photography forbidden area yet.

その近くに中曽根さんのお墓の流域もある。一等地にです。

それから、お土産を買わない店も言う。そこはお守りの本物をうってないから。でもりっぱな周りの雰囲気に溶け込んだ日本家屋のお土産屋さん。脱帽エリアを出てすぐの通り道。
むろんここで買ってもいい店も言う。異臭してからの奥ノ院の出口。

そこでお守り等説明する。ちゃんと聞いてくださいよ。説明してないといわれるの嫌ですから、身代わりお守りは2色。赤、とむらさき。値段は700円。交通お守りは青いろ。色だけ言うと、巫女さんはどのおまもりかすぐにはんだんできますから。御一行のみなさんもたくさんお守りかっていた。一人で5個ぐらいかっている人もいた。お土産にするべく。

そういうわけで、このガイドさんの人となりが見えてきた。

南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)

2013-10-28 23:44:24 | 日記
それで灯りに南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)
とかいてないのもあり、ガイドさんはこれはsきらかに宗派がちがいます。でもすきなことを言っていいのです。心が広いのです。そういう言い方をしていた。宗派は浄土宗、日蓮宗などなど、曹洞宗などなど。

なむだいし●真言宗
・お経/南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)
・本山/高野山派(金剛峯寺)、智山派(智積院)、豊山派(長谷寺)
・ご本尊/大日如来
・経典/大日経、金剛頂経、理趣経、般若心経 ・戒名/ 戒名の頭に大日如来を表す「ア」が入ることが多いです。

信長の供養塔

2013-10-28 23:23:39 | 日記
また墓に興味を人も少なくない。
真言宗総本山の寺院「金剛峰寺(こんごうぶじ)」の奥の院には、
織田信長をはじめ、明智光秀や上杉謙信などの墓碑や供養塔がある。

高野山の精神世界と歴史に魅了された。

鬱蒼とした中にあれがそうだと、信長の供養塔を教えてくれた。苔蒸した古い五輪。ただそれだけで。通り過ぎた。きいてみたかったけれど、聞きにくい雰囲気で。言葉をかんがえていたけれど、びくびくしていた。今は聞くべき時でない。

ガイドさんが高野山の山頂にまっている。山門で観光バスに乗り込んでから説明を始める。
お薦めのおみやげなど。お札の説明と、どれを買うか、交通安全とか身代わりのお札が演じと紫で、などなど。流暢なガイド言葉で縦糸に水がながれるごとく。

ここから先は脱帽で、写真禁止となっている橋を渡る。あちらの世界だという。その奥ノ院の中は階段を下ると、いろんな流派の灯りが飾られていた。ここは流派を問わず、いろんな流派を拒まずというところだという。

山中に広がる宗教都市

2013-10-28 13:49:07 | 日記
信長の供養塔も納骨はされていないとみられる。「信長の墓所」は全国各地にある。
高野山は7年前に来たことがある。
そのときは、此処から熊野古道をあるいた。小辺路コースを延々3日間歩いて、熊野本宮大社へ歩いた。
今回は自分の中では高野山の織田信長のお墓をみるのが大きな目的だった。


山中に広がる宗教都市は、京都や奈良とは異なる魅力がある。
前回は京都で同窓会があって、それはわずか一日で次の朝早く出発した。梅田でのりかえ、難波で南海電鉄に乗り換えて、さらに橋本駅から極楽橋、そこからケーブルに乗り換え、高野山につくそこでバスにのり、お昼時になる。蕎麦屋で蕎麦をたべて、蕎麦屋の裏より小辺路のstartとなる。高野槇の間をあるき、尾根道をあるき、最初の宿に着く。


沿道にはお地蔵様がぽつぽつと置かれていた。古の人が熊野詣をしていた険しい道がただただ延々と続いていた。

今回は山の上にこれほどたくさんの賑やかな街並みと、たくさんの人々の生活があって、山上の都市国家のような様に改めて驚かされた。

高野山奥の院

2013-10-28 13:38:27 | 日記
高野山の奥ノ院にはいると、死者の匂いがする。
薄暗くて高い杉の木が鬱蒼とはえていて、苔むした墓が延々とつづく。
入り始めはすぐに終わるのかと思っていたがそうではない。

ガイドさんがいろいろたっぷり説明がある。
説明は通りすがりの事を。
例えばこれは、SAHARPの
みると、薄っぺらい黒い石がまるで薄型TVのように真ん中にでんとたっている。広い敷地。
次にビールの会社。
この辺個人の墓は無いようね。
友人が言う。

そしてだんだん奥に行く。
苔むして、鬱蒼としている。
 《高野山と奥の院》 高野山の中にある死者供養の霊場が奥の院。約2キロの参道わきに20万ともいわれる墓や供養塔が立つ。戦国武将の墓所をはじめ企業の供養塔や阪神大震災の慰霊碑などがある。「墓所」といっても、魂だけをまつる「供養塔」も多い。

向こうから三々五々と人が来る。普通の観光。
こちらはクラブツーリズムの一行35人。それと先頭は現地のガイドさん。高野山のみのがいどさん。ガイドさんを追い越して先に行ってはいけない。迷ったらもとに戻る術がない。シーンとして、奥が深い。得体のしれない空間が広がっている。