印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

藍の五番という着物

2012-12-31 14:10:11 | 日記
28日にタイムスクープハンタースペシャルを見た。久しぶりで楽しめた。
それが今幸いなことに再放送がされたのです。今リアルタイムで見ている。


先日日本橋付近をうろうろしたところの、日本橋室町の呉服や付近や江戸城の中の大奥の場所が物語である。
御善処で「あした新年じゃ」と、日頃のストレスを宴会で晴らしている。
大晦日の想定外の展開へとなる。
この時代暦は太陰暦だから12月29日が大晦日となっている。30、と31は無い。
そして、古川さんと五平次と呉服屋は危ない所を切り抜ける。

わたしのあづけたものを返してください。
ここからが話のSPOTとなる。一転して山場となる。

まだ終わってはおらぬ
衝撃の結末 五平次を招いた理由とはいったい
余命わずかな妹を五平次に
五平次が藍の五番という人であった。派遣要請業の男芸者の隠語である。


徳川将軍時代の
名もない大奥の女中の物語り


煤逃げして鴨鍋を食す

2012-12-31 13:31:15 | 日記
最後鴨鍋で忘年ランチとなったわけでして、家康さんも秀忠さんも家光さんもたべたのでしょうね。越谷の立派な料亭でした。ここで庶民の法事や祝い事の食事会がされているのでしょうか。

家康さんは民情視察を兼ねた鷹狩でしばしば越谷御殿を訪れている。特に慶弔8年(1613)には三度も来ているようだ。19羽の鶴をとってご機嫌だったらしい。

この元荒川に鷹を飛ばして、おそらく大空に舞う鶴を捕まえたのであろう。今は川に鴨が数羽泳いでいた。それからカワウがそれより大きな黒い姿を披露してくれていた。

鴨鍋を食べながら、元荒川の鴨かしら?だれかがそういった。いや違うでしょ。買ってきたのよ。28人であったけれど。それぞれ席の隣り合わせの人たちで、美味しい鴨鍋を食べながら年内立春を味わった。年の瀬ほどは切羽詰まっていない。、竹藪の中の起伏も年の内に納まっていったかのように思われた。来年はなよ竹のように生きていきたいものだ

天嶽寺の珍しい朱色2階建て山門

2012-12-30 15:23:47 | 史跡巡り




朱塗りの一風変わった2階建ての山門です。この奥の左手の墓地には、越谷吾山の供養墓石もあります。
真ん中に上の梁をかかえているかわいい姿に目が映りました。

天嶽寺(てんがくじ)は久伊豆神社の隣にある。文明(1478年)開山と伝えられている。
その後小田原の後北条氏の城砦に用いられた。始めは北条氏から15石を寄進される予定であったようだけれど。勝負はたいへんです。今回の選挙の玉突きの結果の勝利をきにしてしまいます。
小田原の陣で北条氏は滅亡。家康公が関東に入った後、天正19年(1591年)15石の寺領を寄進の朱印状が交付されている。寄居の鉢型城も北条氏の城で、この辺まで北条氏は範囲を広げていたのですね。鐘撞き堂山の鐘はもちさられて、豊臣軍に滅亡されたというけれど。

寺は誰のもの?その時代の統治者からあたえられているのですね。昔は土地は個人で持てなくて、武士の世の中になって、褒美にもらったりしているから、今の思慮の範囲から想定できないから、こういうのときどき俳句の会で話題になってくる。

そして家康と2代秀忠と3代家光が鷹狩の後ここにもよったという。それにしても珍しい2階建てで朱色の山門でした。ここにspotを当てたいと思います。

神社の楽しみ方

2012-12-30 14:21:06 | 史跡巡り
家に帰って香取神社のHPの境内mapをみた。そこに見つけた。この狛犬は宝暦(1754年)。この神社で一番ふるい狛犬だと書かれていた。258年前の多くの人々が見届けていた狛犬だ。

このあたりの時代からから、ここの神社は人々から愛されていた神社ですね。狛犬は寄進により、成立する。越谷は親しみがあるなー。意識してみると越谷は素晴らしい所です。
この神社には狛犬がいくつもある。それぞれの時代で寄進されて愛されていたのですね。

以前神社の楽しみ方を、思い出して書いている。その神社の成り立ちや、敷地の中の配置を調べている人から聞いたことがある。時空を超えたものが見つけられる。多くのものが発見されることに夢中になっていた。浦和の調神社の奥の方にある建物にウサギの透かし彫りが読み取れた時に、満足した気持ちになった。

解体された越谷御殿

2012-12-30 14:03:00 | 史跡巡り
蛇行する元荒川の舌状の突端部分の川縁を散策する。川にはカワウが二羽黒い鳥影を披露してくれた。思わず見とれる。リアルタイムで見る風景は肌に温もりを伝えてくる。

その後44年が経過したのちに、江戸に大火があって、江戸城は全焼した。これが有名な明暦の火事、いわゆる振袖火事。それで上野広小路に歓楽街ができて、庶民の食べ物やさん飲み屋さんができて、先日焼き鳥を食べに行ったところ。この事実とつながった。タイムスリップしてここを歩いている気分だ。


そして越谷御殿は解体されて江戸城二の丸の仮行居館として移設された。この二の丸今はどうなっているのでしょう。見てみたい。

越谷に御殿場町として地名にして後世に残したのはすごいですね。越谷住民はすごい。築地に小田原町がのこっているけれども、これは築地になってしまっている。昔の名前は新しい現代風の名前にかわっていっている。このあたりが、切ない。

家康と何もない越谷御殿跡

2012-12-29 14:14:57 | 史跡巡り
香取神社を後にして、国道49号線を南にいくと、川にぶつかる。元荒川である。昔はこれが荒川で、後に荒川をつくったから、これが元荒川という。そのさきには古利根川があるのだけれど、利根川がほかにできたから、これは古利根川というそうだ。

越谷御殿(埼玉県越谷市御殿町)は、元荒川が蛇行し、舌状の突端になった地にあり、 久伊豆神社の対岸に位置する。徳川家康は慶長七年(1602)奥州道を公道に指定し、越谷宿を取り立てた慶長九年(1604)には増林にあった御茶屋御殿を越谷郷土豪会田出羽資久の敷地内(元荒川べり)に移し、壮大な御殿を建造したのであるという。今から408年前の出来事である。

どこにあるの?ときいても案内してくれた人はどこにもないという。御殿の面影を偲ばせるものは何も残っていなかった。久伊豆神社前の元荒川べりの一角にあり、当時、その面積は六町歩(約6ヘクタール)あったという。ここに徳川家康が鷹狩に来ていたという。そしてその休憩所として越谷御殿がたてられたのである。人々に語り継がれる『御殿町』という地名にその名を残しているだけのデータをつきつけられたのだ。川べりに石でできた板碑が立っていた。

宝暦時代の古い狛犬

2012-12-29 13:57:46 | 史跡巡り

一通り見て、参道を逆に出る。手水舎で手と口を清めてから参道の出口へ行く。と、本当はここは参道の入り口にあたり、先に手水舎で清めるのですが逆になってしまった。ごめんなさい、神社さん。

そこで古い狛犬にであう。彫が朽ちかけていて、後ろ足は細工は無く、そこまで細工する発想はなく、引っ付いたままであった。手順がないという感じ。

稚拙なつくりではあるけれど、可愛らしい顔をしている。本当に古い風情がある。人々を引き付ける魅力ある狛犬だ。台座にはやはり年代は記入されてなかった。気になるところだ。誰かがいっていた、宝暦時代の狛犬だと。何かに書いてあったのを見たという。なにかとはなんじゃ。




大沢香取神社

2012-12-29 13:33:47 | 日記
北越谷駅から歩いて5分位のところに香取神社がある。駅より歩いていると。大きな地図看板があって、香取神社が載っていた。郵便局の隣。325号線をまず横切り、49号線にでる。ここは交通量が多い。2桁の数字の道路はやはり、きちんとしている。そこを右折すると郵便局になり、小さな入口と小さなフロアがガラス越しに見えた。中からおばあさんが出てきた。年賀状出してきたのでしょう。

その左側にこんもりとした大きな木が目立つ。ここが香取神社であろう。なるほど香取神社駐車場とかいた大きな看板が目立つ。そこをはいると、いきなり奥殿に着いた。旧い建物で彫刻が目立つ。妻沼でみた派手なものでなく、朽ちかけた色の木造で崇高なイメージが湧いた。


大沢の鎮守です。もとは鷺後に祀られていた香取神社を移したものだといわれます。
 創建は、「明細帳」に応永年間(1394~1428)と記載されています。中世はこの辺りは下総国に属していたことから、下総国一宮香取神社を村の鎮守として勧請(かんじょう)し、鷺後の地に社殿が建立されましたが、後に奥州街道の整備に伴い、寛永の頃(1624~44)に今の地に移築したといわれています。

北越谷

2012-12-29 12:23:23 | 史跡巡り
東浦和をまっすぐ車で行けば元荒川にぶつかり、この土手はさくら並木がびっしり続いています。桜の季節はすごく賑わっていて、土手に敷物をしいて、お花見をしている人を見かけました。一度見に行きました。10年ほど前の事ですが、友人の実家が越谷で、よくこの桜のことを言っていたので。

久伊豆神社の入口のあたりにも元荒川は続いていて、そこまで桜並木は有りました。

車で行くと家の近所のコモディ飯田の前の463号線をまっすぐ行くと4号線にぶつかり、さらには元荒川にぶつかり、さらに北越谷につく。6㌔くらいかな。

鉄道で行けば東浦和→南越谷乗り換え→新越谷→北越谷
少し面倒だからよりついてなかったけれど、江戸時代鷹狩に来た場所で、元荒川沿いには越谷御殿跡もあり、板碑もある。


両足を縛られた狛犬

2012-12-29 01:05:58 | 史跡巡り
久伊豆神社の社殿のすぐ右手にある狛犬ですが、狛犬に罪はないのに前足が麻縄で縛られています。家人が家出をしたり、悪い所へ通わないようにとの願掛けの狛犬です。悪いところに行った人を連れ戻す効果もあるそうです。家出をしたり悪所通いをする者に対して、家族が狛犬の足を結ぶ”足止め”をすると必ず帰ってくると言われていました。

誰かが麻縄でなくchainでまいてなくちゃーなんて冗談をいってましたけど
始めにいった北越谷駅歩5分でいける郵便局隣の香取神社でも、麻縄でしばった狛犬ありました。何かなーとおもっていました。そうそう香取神社にも力石ありましたね。力石は久伊豆神社に立派なものありました。その時代のはやりなのでしょうか。

久伊豆神社の年の瀬の表情

2012-12-29 00:42:55 | 史跡巡り
越谷の久伊豆神社にいってきた。徳川将軍家代々の厚い保護も受けてきました。除災招福、開運出世祈願の神社として有名です。

境内は新年を迎える準備で忙しそうにしていた。意外なほど参拝者が多くて、氏子が今年の飾り物など紙袋からはみ出るように見せていれて持ってきていた。お祓いをしてもらうのかしら。
また参道には場所どりに書かれた的やの名前が書かれて貼られていた。さまざまな的屋が店の設営の準備をしていた。テントを張って、板で台ををつくり、たぶん焼きそばやリンゴ飴やそういう類の店の設営だろう。15軒ほど。まだ空地のままで来てないところもあった。明日から賑わうのでしょう。こんな身近なところでこんな立派な神社があったとは驚きです。

歴史は、古く、平安時代の長久・寛徳(1040-1045年)の時代に遡ります。
この神社は、江戸時代は、徳川家代々の将軍の信仰が厚く、神紋は、葵の紋を縦にした立葵(たちあおい)です。近くに、鷹狩などを行なうときのための越ヶ谷御殿があったことから、特別に葵紋の使用が許可されたものと考えられています。

いばらの道の大臣

2012-12-27 17:43:46 | 日記
先日NHKでMさんという人が歴代内閣の布陣のことを話していた。布陣ということが内閣の成功に大きなファクターとなっているという。

一番いい布陣をしたのは、池田内閣と中曽根内閣の時だと言われていた。
首相は任せていたという。連絡を取らなくてもやってくれると信頼しきっている。そういう優秀なひとを大臣に起用していたと言っていた。

脱原発には懐疑的で、今日の夕刊には未着工原発の建設を認めない方針に白紙したと大見出しでのっていた。建設中3基は民主党と同じ考えをしめしたとある。
TPPはオバマ大統領が主導しているから参加の判断を迫れる、反対する農業団体と党内族議員との矢面に立つ。矢がなくても、そういう立場の大臣になれば戦いの連発ですね。いばらの道です。

一月の政治講座で時事通信社の解説委員がこられるのですが、この日に千葉県の人から水仙の花が見ごろで散策に誘われている。講座は首相などの生活の笑い話のような、裏話のような、仄々とした話なんですけれども。受付などの当番だからどうしょうかな。

老婆の休日

2012-12-27 17:20:32 | 日記
一夜明けてTVでは新政権の意気込みを新たに映し出している。
みんな寝不足だと言いながら元気なかおで、大臣の引き継ぎをしている。甘利明63歳新経済再生 社会保障・税一体改革大臣は一時間しかねてないと言っていた。

ジョグジョグいうなら、すぐにtake actionでおねがいします。と真紀子大臣が下村博文新文部科学教育再生大臣に引き渡し式の時に行っていた。これから本当に老婆の休日になりますと言っていた。ローマの休日からすぐにこういう言葉がでてくるとは。さすがです。

でも呼称を引用した失言で非難を浴びたひとが、引用につながる厳しい試練の場所の大臣になっている。
あらためていいことなのか悪いことなのか、take actionにも慎重になってくる。

年の瀬の政権チェンジ

2012-12-27 15:27:53 | 日記
安倍新政権の布陣;平均年齢57.8才 株価今年最高値1万370円 1ドル85.64円
昨日の夜というか、今日未明に行われた記者の質問に答える新大臣のタフさに圧倒させられた。夜中の2時30分まで見ていたが、まだ続いていた。聞くと朝3時30分までやっていたようだ。
年賀状印刷を150枚作成し、また去年まで手書きの分60枚分の一覧表を入力しながらTVでそのライブの画面を見ていた。

麻生太郎72歳新副大臣財務、金融が「自分の持ち時間は5分で、質問も手短に簡潔にお願いします」といって意気込みを語っている。質問もまず自分の所属会社を名乗ってから質問をしている。気迫の時間が震撼としたなかに生まれ出ている。したたかな、またしっかりとした意見が飛び交っている。谷垣禎一67歳新法務大臣も聞かれていた。死刑執行に対する考えを女性の記者から。石原伸晃55歳新環境原子力防災大臣の厳しい現実を突きつけられていた。ライブだから人の交代の時に間があくから、意見は用意してすぐに言ってくださいと注意していた。

でも新大臣たちはすでにきちっと答えを持ってきていた。語られなかったなかに重い課題があることも質問していた人は知っている。党と党を取り巻く人のためではない質問をしてくれている。

これで景気を何とかしてほしいという。インフレ政策が取り返しのつかないものにならないように、みんなが思っている。野田内閣は総辞職をして、自民党に国政の主役を明け渡した。この明確なるチェンジを国民はみんな知っている。室町幕府と織田信長の交代と違うところだ。