印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

吉祥寺カフェくぐつ草

2011-11-30 15:49:28 | 日記
昨日は知人と吉祥寺南口で待ち合わせ。今着いたとメールすると、どこいるの?となる。新宿南口といったでしょう。となる。結局20分かけて、戻ってきた。南口から西口に回り、北口にでて、地下への階段を降りる。くぐつ草にはいる。

店内は薄暗い雰囲気の中、洞窟の中でコーヒーを飲むような感じです。壁もコンクリーとのぼこぼこした感じになっていて、防空壕や洞窟の中のカフェという演出がされています。鉄の扉にかこまれて、そこにある、レストルームも鉄の扉であった。

以前ここで打ち合わせをしていたとき3.11の地震にあったといっていた。あわててテーブルの下にもぐりこんだようだ。でもここはびくともしないだろう。鉄の扉のなかだから。秘密地下組織のような感じ。

吉祥寺の老舗喫茶店でオープンは1979年だそうです。人通りの多いアーケード街の中ですが、お店は地下なので階段を降り、黒い重い鉄扉を開けると洞窟をイメージしたという薄暗く細長いお店。ブレンドコーシーのソフトをたのんだ。630円。話がながびいたのでおかわりをする。500円。カレーライスがおいしいらしい。話はじっくり、こみいったうちあわせが落ち着いてできる。値段は少々たかめですが洒落た都会的雰囲気を醸し出していた。

サムシングブルー

2011-11-30 01:19:59 | 日記
 ・「サムシングブルー」何か青いもの
 ・「サムシングオールド」古いもの
 ・「サムシングニュー」新しいもの
 ・「サムシングボロー」借りたもの

ブルーのもの、ガーターに青い色の花をさすとか、花束に青い色をまぜるとか。

ブーケセレモニーをして、椅子に座っている人から一輪づつ花をもらっていく。それを集めて、おおきな花束をつくる。
ゲストに、白い花、青い花をお渡ししておく。
200年前のヨーロッパの言い伝えにあったように。

そのブルーの花で髪飾りをつくる。

アウンサンスーチー、髪飾り

2011-11-30 00:56:12 | 日記
アウンサンスーチーがいつも髪に差している鮮やかな花の髪飾りは、再会することなく死別した英国人の夫とかつて誕生日に贈りあった品種。彼女にとってこれをつけることが無言の抵抗の証となった。イギリスに帰ることなくビルマに軟禁状態でとどまった強い意志。シンボルの髪飾りはジャスミンの花であるようだ。

アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取って、付けられたものである。

ミャンマーに住むビルマ民族は性別に関係なく姓を持たない。アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。彼女の名前は「アウンサンスーチー」で、原語では分割することはない。

そのジャスミンの髪飾りを髪にかける。
ビルマではジャスミンの髪飾りがお土産屋さんに並べてうっているそうですね。

六本木から信濃町まで歩こう

2011-11-27 22:58:25 | ウォ-キング
増上寺で江戸の街をタイムスリップしたあとは、みなとく坂道を巡ってみようかな。雁木坂(がんぎざか)狸穴坂、鼠坂、鳥居坂などなどこのあたりにあります。その昔いくつかウォーキングでへとへとのゴールちかくで、登りましたね。なにしろ40キロくらい歩いてきた六本木がゴールでしたから。今日は増上寺から足のむくまま、気の向くままあるいてみました。

まずは増上寺よこにある芝公園で薔薇を見て歩きました。公園から都会のビルと増上寺がみえます。
  

弁天池にぬけて、桜田どうりを赤羽橋までいって、右折して六本木にでるか、それとも、桜田どうりを飯倉で左折して六本木にでるか。赤羽橋からだと、麻布十番からの鳥居坂が少しきついので。なじみのある飯倉経由にきめる。トウキョウタワーへの坂を上る。左に豆腐料理の有名な料亭があるのでその横の公園。ここに地図看板がたててある。

 

外苑東どうりを信濃町までいくことにした。ミッドタウンを通り抜けて、乃木坂にでる。乃木邸ですこし休憩する。


信濃町の道標がみえる。イチョウの街路樹が美しい。


信濃町駅につく。新宿のサザンテラスのシンボルのビル群が夕陽をうけている。



三解脱門

2011-11-27 22:18:31 | 日記
浜松町駅北口より
 

600㍍ほどすすむと大門
 

さあらの50㍍ほどで三門にあいます。窓から人が見ています。
    

ここが最後尾です。より並ぶ人300人くらい。待ち時間40分ぐらい。
  

増上寺三解脱門(三門)

2011-11-26 21:58:09 | 日記
11月30日(水)まで芝・増上寺で開催中の戦後初の一般公開「三解脱門(三門)」。行った人より聞く。

浜松町駅北口より降りる。

通称「大門(だいもん)」。三解脱門(三門)の手前にある増上寺の表門です。

上がらせていただく増上寺の中門「三解脱門(三門)」の正面へ。
朱漆塗りの威風堂々たる外観は、寺格百万石と謳(うた)われた増上寺の面影を今に伝えています。
明治期に入って境内地が狭まり、
現在ではこの朱塗りの三門が増上寺の入口の門=表の顔として広く知られるようになりました。

増上寺はまえにいったことがあるのですが、この楼上から外を眺めてみたい。江戸時代の面影が浮かぶであろう。三門は入口が三つある。長崎にこのようなのをみたことがある。それぞれ意味がある。

三解脱門(三門)の正面から見て右側の山廊の急な階段を上って楼上へ。山廊は平屋の建物で中に階段がある。(拝観後は左側の山廊のやはり急な階段を下って地上に下ります)
拝観料は500円(中の自販機で購入)で、増上寺の素敵な竹栞が記念についているようだ。

高層の建築物がなかった江戸時代は、いまのJR浜松町の駅の先にあった海が見えた。ブラタモリに以前でていたかな。

増上寺は浄土宗の学問所・修行道場であり、将軍家の菩提寺でもあったので、当時の庶民が自由に入ることができないが。
四月八日の潅仏会、春秋のお彼岸、七月十八日の開山忌などには三門へ上ることが許されました。
人々は楼上に上って、お釈迦様に手を合わせ、そして、背後に広がる江戸の町並みを見渡し、
江戸湾と遥か先の房総の山々を眺めて楽しんだのでしょう。
江戸庶民にとって三門が格好の展望台でもあったことでしょう。

血圧降下剤

2011-11-24 13:20:18 | 日記
昨日一緒にヨガのパフォーマンスしたひとと帰り昼ごはんにでかける。義理の親の介護で血圧が170になったときに、病院にいって、血圧降下剤を飲むようになった。病院に行くたびに、血液検査をして、1300円かかり、3週間毎に病院で血圧の薬をもらっているとのこと。

それにアイソトープも浴びて甲状腺の薬ものんでいるとのこと。疲れやすいという。一緒にハイキングにいったりするけれど、そんな感じみえない。バレーボールもしているし。

今日歩こう会で国昌寺まで8人でいっていたとき、東屋で休憩して、その時5人もが、血圧の薬をのんでいた。一人の人190も上がってすぐに薬をのみはじめたとのこと。ほかにものんでいて、新薬を値段が高いのを現在と同じ価格でいいという。、その代り、経過を調べるという、サインしたという。銀行口座もとどけて振り込まれるようだ。1週間分山盛りの薬で、ケースにわけて、管理している。血圧は、1錠だったり、1.5錠だったり、その都度検診で違うようだ。毎月¥13,000かかるようで。一年で¥30万位はらうといっていた。10万ひいて、残りの20万の一割が調整で戻ってくるという。

他の方々も似たようで血圧を測りにいって、5分もかからない治療に、医療費が1300円以上かかるようだ。来月から初回、再診にかかわらず100円はらうという。そお反対署名に昨日記入したという。

今TVで医療保険のしくみを説明している。くらしの中のニュース解説で。財源がなくて、高額医療の方を軽い方が負担しましょう。ということらしい。昨日きいた100円負担のことですね。保険料、税金、患者負担のバランスをという。

ヨーガのパフォーマンス

2011-11-23 23:09:01 | 日記
いつもいっているヨーガの場所。生協歯科で生協歯科健康まつりがあった。
中央ステージで民謡三味線、太極拳、虹のフラ、地域の方々による日頃の成果をご覧いただきみんなで楽しく過ごしましょう。というコンセプトであるが急にヨーガもでることになった。昨日電話で、いきなりいってきた。世話人が全滅だからといって、それで急遽にわか出場となった。こじんまりと、会場のひとたちとご一緒にと言う感じで。

1.ヨーガはハリウッドヨーガとハタヨーガと笑うヨーガとあります。
 は、は太陽で息は吸う   陽
 た、は月 で息は吐いて  陰

2.ではみなさんお腹に手をおいて、呼吸法をします。
3.ではなまさんおそれいりますがたってくださいませんか。二段式呼吸をします。吸って、吐いて。吸って、吐いて。次に吸って吐くときに、肺を空っぽにするために、絞り出します。はいででは、吸って停めて、吐きます。手を添えて。初め片手。右手~左手~両手。
4.では笑うヨガ  1,2,3でいきます。1.息を吸う、吐く、 2、吸う 吐く 3.吸う で笑いましょう。ではもう一回。
5.最後に深呼吸をします。

先生も来ないし、みなさんを混乱させてしまったようで、申し訳ないようでしたね。前に5人ならんで15分で終わりましたけれど。戸惑ってしまいました。どうしたらいい。苦情がきてもいいくらいのパフォーマンスでしたね。
でもお客さんも15人くらいで成功でしょう。みなさんも一緒にパフォーマンスやっていましたから。満足していたみたい。

以前かってにしゃべり、低い声で何言っていたかわからない、演説を20分きいて、聞く方もつらかった。でもそれが勉強になっていた。平坦ではいけない。メリハリをつけて、声も楽しく。といったら、そういう見方もあるの、と友人がいっていた。会場の皆様と楽しく満足していただけるのが一番ですね。

   

冬桜

2011-11-23 22:42:57 | 日記
大牧から帰るときは最近はいつも見沼用水西縁を自転車をおしてかえっている。途中に冬桜がさいていた。みとれてじっと見つめていた。見沼田圃で畑仕事をしている人が教えてくれた。四季桜だよ。春、夏も咲いているから。見ていると心をいやしてくれる。力が抜けてくる。むちゃくちゃかわいい。

今日テレビのNHKででていた冬桜と同じ形をしていた。枝振り、花の大きさ、花の八重の形がそっくり。青空に綺麗にさえていた。これこそが見沼の広い大地に厳しい光景にひたすら咲いている。という感じだった。この絶妙なこのじきに、なにより驚かされた。あたりにはもう枯れ木や枯草で、コスモスも萎んできているのですから。

想い出のバテ山行

2011-11-22 11:29:52 | ハイキング
もう3ケ月になる。山にいくのはやめようと思った日から。山といっても低山。少し甘く見て前の日、打ち上げがあって、夜もTVなどみて、本を読んで、寝るのがおそくなった。ハイキングを甘く見ていた。低山で究極のバテを経験してしまった。
バテの原因とその対策を化学的に考えようとこのごろ思った。

欧米のマラソンランナーはレースの前日の夕食時、パスタやスパゲエッテイをたくさん食べるそうだ。エネルギーのもとになる炭水化物だからだ。グリコーゲンの生成にはインシュリンが欠かせない。炭水化物食はインシュリン分泌を強く刺激する。登山前夜には炭水化物をいつもよりおおく取ることにした。クエン酸も炭水化物の吸収促進の助っ人となるという。みかん、オレンジジュースなどの柑橘類。これで前夜の燃料補給は準備完了となる。

それで先週のハイキング前夜、鳥釜飯を三合たいて、たくさんおかわりして、あらまあ数時間で2キロも体重がふえてしまった。それから翌日のハイキング用におにぎりも3個作ってリュックにいれた。そして早寝をした。よって早起きもでき、朝ごはんもしっかり食べて、でかけた。バテなかった。

以前は下山時に足攣りにあって、そちらの用意万端のみをかんがえていた。いつも漢方芍薬甘草湯の顆粒と、カゼインペプチドアミノ酸の顆粒を持参している。いつも途中でのんでいたが今回はあまりの低山か、前日の炭水化物がきいていたのか、これらはまったく出る幕はなかった。


石田波郷読本

2011-11-21 18:06:18 | 俳句
石田波郷のことを調べたいと思って図書館に行って、検索してさがしたけれど、ないので、俳句のコーナーで的をしぼって、探していた。ついにぴったしの本にであった。

石田波郷読本 編集人海野謙四郎  平成16年9月30日 角川書店

波郷の全句集と文章を選んで一巻としたとある。8冊の句集を1本にまとめたものはないという。

しかも山本健吉 の『石田波郷君の応召を送る文』もついていた。入隊の前日北浦和の寓居を訪れた。とある。駅から30分尋ねまわった挙句、やっと目標の桐畑を発見…とある。

北浦和のどこだろう?と思っていたら、だれかがしらべたのが見つかった。本太はよく歩いているし、1丁目もわかる。1丁目は知人が住んでいる。なんか、ここにいたのですね。

ーーー↓by web--

ここは北浦和の駅から、2、3分の所で、左側は桐畑、庭には桜や桃、梅、何本かの木も植えられ、粗末ながら、玄関、四畳半の応接間、居間、六畳に床の間と縁側がつき、風呂、お勝手と、庭もあり、中級サラリーマンにはちょうどよいくらいの所である。家賃37円也。駅からすぐの川越街道は、昔を偲ばせる古い松並木が遠くはるかにつづき、大名行列まで目の前にうかぶような、静かな古い町である。


石田あき子『夫(つま)帰り来よ』

 さいたま市民局市民部市民総務課に問い合わせたところ、「浦和市本太後原2145」は現在のさいたま市浦和区元町1丁目14番であるということだった。さいたま市浦和区元町1丁目14番は「北浦和の駅から二、三分の所で」はないので、何かの間違いではないか。




板橋七色の川

2011-11-21 16:23:43 | 日記
 朝自転車でヨガにむかうため、急いでいた。会梅のバス停付近でヨガの先生とばったりであった。函南いかないの?と声をかけられた。今回は都合悪くて…つたえて。

先生は日の出どうりから番場折り返し行きでバスに乗ってきているという。前は違う路線で東浦和から歩いてきたけれども、こちらのほうが近いからといっていた。

中国の話になって、部品工場が東南アジアに行っているという話になった。

 板橋に部品工場がたくさんあった。それから工場は、埼玉に移り、東北に映り、中国に移り、東南アジアに移って行った。板橋では町の川が七色の川とよばれていた。今は工場がなくなり、工場の跡地にはマンションができ、人々でうまった。工場よりも、住宅地のほうがいいでしょ。七色の川のことは知らなかった。今から45年前だから。ヨガの教室は生協歯科である。豊かさに引き換えに忘れかけていた話、伝えていきたい民医連の話など、皆の前でプリントくれる。ジラード事件など書かれていた。まだまだ理解不足だけれど。

こういう話をすると、きっちりとはなす。自身の言葉ではっきりと。だから歩きながら、東浦和近くの会場まで話続きだった。東北の部品工場は津波で…、タイの部品工場も今は水没している。打撃をうけている。


板橋区内の工場数等と人口の推移の図表がある。これには昭和25年から5年ごとくらいに、数字で推移がのっていた。なるほど、昭和20年は工場数、711 人口22万人。S40年2348、人口47万。そしてS50年5321、49万人 H15年 2584、52万 とwebにのっていた。先生のはなしと合致する。
 以下webよりーーーーー
昭和40年代から始まった公害行政の成果やさらに環境先進自治体としての板橋区の環境行政. の移り変わりが紹介されています。この項 ... 都市河川の汚染(七色の川). ● 抜け上がる井戸 ... り、隅田川と荒川放水路

昭和50年代になると、大規模工場の移転が盛んになってきた。これは、急速に都市化が進む中で工場が、「工業制限諸法により工場拡張や設備投資ができなくなったこと」「低廉・良質の労働力の確保が難しくなってきたこと」「近隣からの公害苦情により操業に制限があること」「高地価により増設用用地の取得が不可能なこと」などの理由であった。
区内の敷地面積1,000㎡以上の工業用地は、昭和50年(1975)に180.7 haであったのに対し昭和63年(1988)には123haと57.7ha(32%)も減少し、跡地は民間マンション、集合住宅になった。