印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

攻防Yen・円Yuan元

2010-12-31 19:41:29 | 日記
中国のお土産の可愛い靴のおきものがテレビの前に飾っている。値札は面白みがあるからつけたままにしている。¥88 と値札がついている。

中国の通貨がゆっくりと国際化をはじめたようである。「Yen]と「Yuan]。同じ頭文字をつかう。将来、どちらがより使われる通貨となってくるだろうか?

外国為替につかわれる通貨の割合は、1位米ドル84.9% 2位ユーロ39.13位円19.0%  その他の30.1%の中に、元0.9%  (2010年4月時点。通貨同士の交換のため合計は200%になる。国際決済銀行調べ)


exchange rate   equivalrnt  foreign

去年12月 CNY          14.66%  03.12.09     ¥10000 ⇒CNY622
今年6月 Indian Rupees  47.90  29.06.2010    ¥80,000 ⇒R34100
     USD          113.10  24.05.05      ¥30000 ⇒US$265
     THB           3.18  11.09.05      ¥1590 ⇒THB500
     USD          114.08  14.11.08      ¥30000 ⇒US$260
     AUD          59.8229 04.March.2009  AUD141.73 ⇒¥8000

暗くなる前に年賀状

2010-12-31 19:23:45 | 日記
今年は年賀状を昨日買ってきた。郵便局が開いていた。それでのんびりと午後になって裏面印刷して。宛名面をそのあと印刷した。

パソコンが新しくなって、jobの700枚の賀状をを印刷するための入力を、12月初めより、暇を見つけて、入力をやっていた。新しいソフトに宛名をいどうするのに、backupしてなかったから。フラッシュメモリーにいれておけば、新しいソフトに移動できるようであるが、動きが鈍いXPからセブンに移行するやり方考えてるよりは、せっせと入力していくしかないだろう。ということで、ひたすらルーチンワークをこなした。12月24日に700枚終了し郵便局に投函すみ。

個人の分が、気がぬけたコーラのごとく、気分が乗ってこない。ぎりぎりになって本日投函した。失せしものも出てきたし、これで年が越せるね。

納豆の銘柄から

2010-12-30 11:59:16 | 日記
 昨日は30分ばかりの歩きで見たいものは見た。自転車が事情でなかったので見るつもりはなかった。初めは庚申塔のみで、お使いして帰るつもりが、納豆の好みの銘柄がコモディーイイダしかないだろう、ということでそちらに回ろうと思ったついでに、少し歩いていっただけ。

 江戸時代に作られた赤山道が生活道路となていることは確かですね。もっとも赤山道沿いにあった、雑貨屋や酒店は閉鎖してから久しい。この辺はさびれてしまった。それらの店はR463バイパスにでていって、セブンイレブンになっていたけれど、今は違う店になっている。大型スーパーマーケットもでき、洒落たレストランも2軒ほどできて、お客さんがいつもびっしり入っている。自動車の発達に伴い、片道2車線道路ができ、見沼の西縁、芝川、東縁をいっきに跨ぐ見沼大橋もでき、地域の往来は今や赤山街道ではない。

ここに、道路企画ができたころ、まだ砂利道で、ここに50cmの穴ぼっこがたくさんあった。オレはそのなかの一つにバイクの前輪が入り込んで転倒したことがある。砂利が膝の表面の傷に入り込んで、1か月近くは遠くの外科に通った。その時のここは荒れ地とのっぱらで何も無かった。自転車にのって、片足漕ぎで通院した。くいこんだ皮膚から砂利が浮き上がってくるのを見つめながら。

赤山道は台地の縁にある

2010-12-30 11:13:33 | 日記
 高野家の屋敷や大熊家表門のあたりの右側の水深地区はすっかり様変わりしてしまった。

 赤山道の、この辺は少し前に道路工事があったばかりで、ずっと通行止めになっていた。今では道路はすっかり綺麗になってしまった。区画整理もされて、一ヶ月まえにヨガに行くのに、赤山道は通行止めであった。近道だったのに、と思いながら遠回りして、さらにいい道路を見つけてしまったばかりだ。雑木林や荒れ地などはすっかりなくなってしまった。今風の洒落た住宅地となってしまいつつある。区画整理されて、この道を通らなくても、いい道路ができた。尾間木の方面に行く道は、碁盤の目のように、つくられつつある。幹線道路とのつながり部分は、つまりは浦越線(R463)とのconection部分はまだ繋がってない。それ故自動車は通れないが。自転車と歩きは可能である。一番労を使わない部分の道を模索している最中だ。

 そういえば、赤山道も台地の平たい部分に道ができている。つまり台地の縁を巡っている。江戸時代によく地形を考えて作ったものだと、伊奈さんに感心している。一つだけ見沼の西縁から登り降りする部分だけが坂になっている、と何かのfileにのっていた。捜してみたが、ちょっと見つけていない。webだか本だかどっちかだ。


赤山道大熊家表門

2010-12-29 18:55:50 | 日記

高野隆仙の眠る水深東霊園を通り過ぎて200mのところに、長い瓦葺の堀が続き、瓦葺の薬医門がある。

14:22

 写真をクリックすると読めます。




大熊家表門(市指定文化財)である。もともとは中山道浦和宿本陣の門で、江戸時代末期に作られたこの門のみが、浦和宿本陣を知る唯一のものらしい。今は、よそのものって感じで、門だけが指定になっている。門の向かいには植木の花が売られていた。綺麗な花が並べられていた。

赤山道旧高野家離座敷

2010-12-29 18:39:39 | 日記
この庚申塔を過ぎて進むとR463バイパスにぶつかる。前はセブンイレブンであったところが、今は介護関係の事務所になっているが、その前の信号を渡って、左斜めに入る細い道が赤山道となっている。300mいくと、大きな茅葺のいえが見えてくるが、通り過ぎて、新しい家が二軒あるその後方に、旧高野家離座敷(市指定文化財)がある。

蛮社の獄で逮捕された「高野長英」が逃亡中に一時かくまってもらっていることは、以前何かできいたことがある。20年前に市政だよりにのっていて、みにいったことがあるが、今はすっかり雰囲気がかわっている。団体で中をみるかたは、浦和くらしの民家園に事前要連絡で窓をあけて、中をみれるようだ。立札に書いてあった。思っていたよりずいぶんと小さい。

 14:13

赤山街道大宮道三室庚申塔

2010-12-29 17:42:10 | 日記
   13:54

家から50mほどのところの、小高くなったところに三室の庚申塔(市指定文化財)がある。寛保二年(1742)建立。面金剛、二童子、四夜叉、三猿、二鶏、月日を浮き彫りにした賑やかな庚申塔である。道しるべも兼ねており「東ハ赤山道」「西ハ大宮道」と刻まれている。高さは2.5mもあり、しないで三番目におおきな庚申塔である。字は写真をクリックすると大きくなって字がはっきり読めるよ。

赤山道のほうは半分朽ちかけて、風化にあっている。赤山街道と刻まれていない。ではないのは何故だろうと前から思っていた。この辺の人はみんな赤山街道と言っている。オレも昔からそう思っていた。この通りは北宿通りの「西宿」バス停より、R463に抜ける抜け道となっているので、車が多く通っている。近所の明治生まれのおじいちゃんはこの通りで東京まで自転車で遊びに行っていた。

歴史的には、関東郡代の伊奈忠治が寛永6年(1629)に伊奈より“川口の赤山”に領地をもらい、赤山陣屋を構えました。「東 赤山道」 「西 大宮道」と刻まれているように、五街道以外は目的地の方向で呼び名がかわりました。赤山道は当初、年貢米を運ぶ目的で作られましたが、享保16年(1731)見沼通船掘りが完成すると、舟運で江戸から運ばれた肥料・お茶・日用品などを赤山道沿道の村や与野本町まで人馬によってはこばれたいた。(浦和・文化の小道より抜粋および今年前半の見沼アカデミーにての講座を考慮しました。)江戸の人々のかんばせが動きが感じられる、師走の庶民の散歩でした。

脇往還

2010-12-28 12:35:28 | 日記
軽井沢から40キロ歩いたころは6年前だった。うちわにそのルートを貼って、みながら仲間とあるいていた。お昼はお寺の境内で弁当をひろげて食べた。夏のころだった。その日はその年で特に暑い天気予報がでていて、最高に暑かった。。「あさま55号」大宮発7.18軽井沢着8.15であった。うちわに書いていた。軽井沢8時半に歩き始めた。。

①軽井沢宿 1.5キロ
②沓掛宿 4キロ  カラマツ並木道~国道18号へ
③追分宿  4キロ
④小田井宿 5キロ  分別れで右は北国街道R18、左は静かな道の中山道しなの鉄道の地下道を潜り、緩い下り道 
⑤岩村田宿  5キロ
⑥塩名田宿  5キロ
⑦八幡宿   5キロ
⑧望月宿   3.5キロ
⑨中山道を離れて、春日温泉へ 9キロ  
合計40キロ 

集落、リンゴ園、田圃の田園風景、千曲川の川端、瓜生坂の峠越え、鹿曲川を渡る。などなどいつも話題に上る。皇居一周のときも、話題に上る。脇往還をとおったり、国道をとおったり、暑い中よく歩いた。中山道そのものをたどるのはなかなかむつかしい。国道18号線をいき、北国街道の分かれ道で、静かな道をいっていると、江戸時代の建物が多いところにでたり。昔は1里ごとに宿があったのかな、と思ったり、そんな感じで歩いていた。

・空っ風押されてたどる脇往還   美知

姫街道

2010-12-28 11:57:57 | 日記
トッパーコーの話をきいて、改めて、旧中山道のお店をながめる。薬や、など江戸時代のふるい宿場町がそのまま残っている。皇女和宮がここ中山道をとおって、はるばる京都から通ってきて休んだところが、いたるところに記念碑がたっている。以前軽井沢から佐久まで40キロ歩いたことがある。いくつか宿場町を通ってあるいたが、そこにも和宮妃の記念碑があり、料理の名前ものっていた。各地域で前々より、おふれがでていて、おもてなしに気をつかったことでしょう。中山道はまたの名を「姫街道」とも聞いている。

無形史跡巡り

2010-12-28 11:10:43 | 日記

行田の忍城の側に住んでいた人も、終戦のころのB29が上空を飛んでいく中を、畑の中に弟妹をつれて、逃げ惑うさまの話を聞いた。畑は広大でまさか、そこに焼夷弾を落とさないだろう。とにらんで逃げた。防空壕はあてにならない。両親は家が燃えないように二人で火の粉を消して、家を守ったという。熊谷からの避難者の列が延々と続いていていたという。焼夷弾での火事で火傷をして、しかも着ている服はボロボロに焼けていて、体はあまりの熱さで、川の中にぞろぞろ入って行っている。川はそれ以上入る余地もないほど、人で埋め尽くされていく。そして終(つい)を迎える。オレは聴くのにつまる。そういうこともあったんだ。オレ的史跡巡りはその人たちの話を聞くことでもある。無形史跡巡りにもなってきている。

トッパーコート

2010-12-28 08:14:36 | 日記
今日の朝ドラの「鉄板」で、おばあさんが白いトッパーコートをきていた。尾道の海に立っているシーンで着ていた。亡くなった娘さんのお墓に初めてお参りをして、お好み焼きを供えて、主人公である自分の孫と家族になった、認識をして、突堤にたっている。後姿がまぶしい。存在感がある。

先日旧中山道の蕨宿をあるいていたとき、河内屋など古いお店が街道をつらぬいていた。浦和宿の隣が蕨宿で、その昔は蕨宿のほうが、人口も多く、栄えていた。浦和に住んでいた人が子供のころ、母親につれられて、街道に年末の買い物にきて、トッパーコート、とそのころ流行った、ウール地のスカーフを買ってもらったと話していた。スカーフはそのころの子供が三角に二つ折りにして、防寒に頭にかけて首のあたりで蝶結びに、頭から抜けないように縛っていた。東欧のお人形さんみたいな、そういう可愛いファッシォンだ。時代を感じる。終戦後の日本がだんだん復活していった時期である。


松の内に温泉

2010-12-28 07:59:50 | 日記
年あけての松の内に温泉に誘われた。昨日の夜のことだ。宿がとれなければ3周目にということで電話を終えた。手配できたと1時間も立たないうちにメールがきた。貼り付けたURLをみると、全館源泉かけ流し、湯の宿とあってすてきな旅館だ。

新幹線または踊り子号でいくかな。

・湯治場に誘われてゆく松の内  美知

・松の内水着もいるる旅支度  美知

残酷な沈黙

2010-12-27 15:32:43 | 日記
沈黙は金なりと言う諺がある。こういう場面にぶつかると、沈黙さんが教えてくれる。トイレにたつふりをして席をはなれる。いろんな人がいるから。誰かを傷つけない、公共性がないことは、プライベートなことは、言わない。

話が分かち合える仲でなかったからこそ、残酷な沈黙が生まれてくる。

テレビで弁護士さんがいっていた。「どうして、簡単に離婚するのかな?『きれいに別れたい』、そういうジャンルがある。から」と。


来年1月句会がブッキング

2010-12-27 14:16:18 | 日記
句会がブッキングしてこまった。11月にはわかったんやけど、その時は勿論銀座句会にでるよ、と友人にいってん。さいたまは、不在投句になるかな、と。そのときに、文法教えてくれたその友人は、銀座は欠席して、埼玉にでると、結論していた。

しかし、友人は12月前に銀座は辞めてしまった。

ところが、さいたま句会で、全員と仲間力ができてきた。となってくると、その日不在するとは言えなくなってしまった。ましてや、兼題を出している当人がやすむなんてとてもじゃないが、言えない。優柔不断となってしまった。もう一人の友人は銀座は7月から辞めている。だけれど、ただ休んでいるだけだという。現在のシステムに共鳴できないだけだと。システムがしっかりしてくると再度戻るという。そういう辞め方として、銀座の仲間が捉えている。辞め方はありとあらゆる方法がある。

結論として、銀座は不在投句になる可能性になってきた。不在投句が慣例になっている。辞めることになる。お金の問題にもつながるようであるから。でも不在にして、自分の句が読みあがるのもいやだな。銀座のほうは、皇居一周のかたにもつながりあるし。公共性のないこと、いってるだけなんだけど…。 不在…だすと同じ時期に作る句の数が倍になる。無理難題が覆いかぶさる。

蝋梅の花が咲いてるよ

2010-12-27 13:56:50 | 日記
蠟梅は大好きな花である。ユガテの里に行った折、苗を200円で買ってきた。素朴なひっそりとした無人の棚に3株ほど並んでいた。初夏の蒸し暑い日「顔降り峠」から「ユガテ」にでたときだった。遠くの畑で何人か人々が種を蒔いてていた。畑は黒々と山間に広大にひろがっていた。豊かな土の匂いがただよってきた。いただきましたよ~大きくこだまのように声掛けをして、一株買ってきた。リュックの背のpocketにいれて、大事に持って帰りました。今はまだ小さいので黄葉した葉っぱがびっしり苗にくっついている。花がつく頃までには15年くらいかかるかしら。

今年はもう花がついている。この時期の12月に黄色い花をつけるのは、珍しい。年明けて花を咲かせるものと思っていた。今年は暖かいから。もう花がついている。きっとユガテの里も咲いていることでしょう。