印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

県立がんセンターから

2011-04-20 00:42:36 | folk lore
埼玉うきうき20選に県立がんセーから伊奈中央駅までいいコースがあった。この本はハイキング3時間となっているから、ハイキングかなと思っていたら、このコースは平地ばかりで、無線山とかいているけれど、みあたらなかった。どこかで見落としていたに違いないのだろう。
わざわざ構えなくてもウォーキングコースとしては最適のお薦めだといえる。

車をがんセンターにおいて、そこでかって知ったる病棟の面会場所で缶コーヒーをのんで、伊奈陣屋跡を境川まで1時間いってもどり、がんセンターから100分あまりをさらなる歩きをする。ここからが最高の舞台であった。

大宮台地と言う感じであった。コースマップで少し注意がいるのは、赤十字センターで、北側の林に沿って山道に入る所。小室受信所正面前からサクラ並木、ゴルフ練習場前を過ぎてサイサン前の信号手前で右におれる道。むこうから防犯と書かれた緑色のcapをかぶった、いぬの散歩をしている人に確認していく。そこをまがれば道なりに新幹線のみえるところまで、気持ちよくいける。約2300mほどで小室湿地が見えてくる。からし菜の黄色い花が川沿いに咲いていた。また春先まではコガモカルガモの休息地である。オオタカの狩場でもある、と書いてあるが、川幅もせまくなっていて、イメージがわかない。夏場はオオヨシキリ、セッカの声もきけるようだ。

オオタカの営巣地へはおおむね林の縁に沿ってあるく。春どりコゲラ、オオタカ。夏鳥オオルリ、キビタキ、カケス。やがてハルゼミがなきだすであろう。

伊奈氏の屋敷跡原市沼

2011-04-19 01:10:11 | folk lore
  

伊奈氏の屋敷跡はここにもあった。赤山の陣屋にうつるまえの、天領であった。そして屋敷林とそれにつづく広い樹林は素晴らしい。アカマツ林や雑木林、果樹園がひろがっていた。なしの白い花が満開であった。ブドウのはたけもあり、まだ芽をつけてなかった。

故里の緑の景勝地だ。その昔伊奈側と原市側が水利争いもしたようだ。伊奈町役場発行の地図では原市沼は丸山沼と記載されているという。さらに地元の人は「小室沼」と呼ぶ人もいる。

面白いことに境橋の近辺で測量していた、公務員のかたに、伊奈氏の表門跡がみつからなくて、きいてみたら、いろいろ大きな地図をみたりしていたが、わからないという。とどのつまりは、上尾市の役場のもので、知らないという。さっきまで伊奈市の人がいたんだが。ここは堺川で、その辺の護岸工事などをしていて、測量などのしらべものをしていた。こんなところでも縦割り行政が発揮しています。

境橋の目の前が埼玉県指定史跡・伊奈氏屋敷跡の構え堀であり、表門跡は100m先にあるようだ。県がつくった案内板はあるけれど見つからなかった。初代関東郡代伊奈蔵忠次がここに陣屋(居館)を構えた天正18年1590年)は、豊臣秀吉が小田原城を攻め徳川家康が江戸城に入った年である。大河ドラマ「江」でそのあたりの時代をやっていた。
通りすがりの屋敷跡の景色をながめていた、地元の人にきいたら、川の鮒の量も減ってきたという。昔はぴちぴちととぶようにたくさんいたと言っていた。

美薗小学校ができるの?

2011-04-05 17:36:34 | folk lore
昨日立ちあいでご一緒だった方がいっていた。40年代に中学生だったという。昔の話をたくさん聞いた。まさしくふるさと伝承だね。

小学校中学校とここで育って、もう一人の方と同級生で一緒だったって、幼馴染なんだね。

中学校のとき、シラサギ当番があって、当番の時はどじょうを見沼田圃にとりにいって。秋になって田圃が干上って、泥沼になって、そこに土壌が泥土にもぐって、ちょっと手をつっこむと、じつに5から6匹うじゃうじゃとれる。それをシラサギにあげる。

見沼田圃には蛍がびっしりいた。学校の帰りは蛍の季節は蛍に囲まれて家に帰ってた。稲の基の茎の方についた幼虫までも光っていた。

見沼東縁から芝川までずうっと田圃をもっている豪農があって、東縁の上から芝川までだんだんに田圃をつくって、あぜ道もつくって、上から順に水をはっていって、芝川にながす。それを全部持主がひとりでつくったのですって。長さは200mもあったそうです。

その話した人の家も家業は農家で田圃はたくさんあった。雨で田圃が水浸しになり、学校が休みになり、親父の手伝いで、大八車をひいて、鳩ヶ谷までできた作物をもっていったそうだ。


その時代は人口も少なくてこじんまりして、田圃ばっかりだった。今は美薗サッカー場もでき、イオンモールもでき、マンションもできて、人口もふえたという。だからこの4月から美薗小学校ができるの知ってる?ともう一人の同級生に聞いていた。家はサッカー場の入口近くといっていた。まだまだ空き地いっぱいあるけどね。埼玉高速鉄道の美薗駅があるから。これからどんどん発展するだろう。

昔話が風にのって、やってきたようだ。
クラスに井沢姓がふたりいたって、見沼代用水をつくった、井沢弥総兵衛為永さんの子孫だといっていた。

今はシラサギも蛍もいない。たまに灰色の大サギをみるくらいだ。

さるまん塚(三室地区)1742年

2011-04-04 11:48:31 | folk lore
剣人六手・輪・矛・弓・矢・日月・二鶏・二鬼・二童子・三猿・四夜叉
の庚申塔



さまざまなものがのっている。賑やかですね。

サルマンさんというかたいるのですね。印度のかたの名前にありました。


サルマン・ラシュデイ(Sie Salman Rushdic)
1947年6月19日-というイギリスの作家がいる。印度ボンベイ(ムンバイ)出身の元イスラム教徒の無神論者ケンブリリッジ大学のキングズカレッジ卒業で。現在ニューヨーク在住

さるまんということば、【広辞林】やWEB辞典などいろいろしらべたがいまだ出典わからず。しかし民家園のパンフレットや、市の広報などでは「さるまん塚」と書いてある。庚申塚の固有名詞であろうか。中国などにもあるようだ。童話など

怒髪型の髪、額に三眼の目もある。首にドクロの飾りをしている。
青面金剛の足元に二体の鬼。
下に四体の夜叉
下の台に三猿(言わざる、聞かざる、見ざる)
右側オン鶏、左側メン鶏

近所なので何回もみにいく。結構この庚申塔注目されているようだね。

さるまん塚西ハ大宮道東ハ…

2011-04-03 21:03:54 | folk lore
家からコモディイイダにいく道にでたところ、つまり赤山街道にぶつかると、さるまん塚がある。BIG-Aのある北宿通りのコーカ同薬局から、島根建材を通り過ぎ、200mほど進むとY字路があり、左手の小高くなったところに、この大きな庚申塔がある。寛保二年の庚申塔(市指定文化財)1742年に造立。講中の健康を願いさまざまな像が刻まれている。

 

像は幾分朽ちているけれど立派である。面金剛、二童子、四夜叉、三猿、二鶏、月日を浮き彫りにした賑やかな庚申塔。高さは2.5mもある。市内で二番目に大きな庚申塚である。(さいたま市内最大[2.25m]と書いてあるのもある)

側面に「東ハ赤山道」、「西ハ大宮道」と彫られている。赤山街道が、向かう方向で呼び名が変わる庶民の道であることがわかる。

八丁堤はダムのようで、上に赤山街道ができて、南東から北西にのびている。北西は当時の市場町であった与野まで、南東は赤山(川口)ここに赤山陣屋がある。このダムうめたてたのだから、ディズニーランドのように、いざとなると液状化現象がおきて、危険ではないかと思った。ダムができてから、赤山街道ができるまで、100年以上経っているから大丈夫なんだね。

台地の上を上手に利用して道をつくっているんだね。

八丁堤は関東流

2011-04-02 23:48:44 | folk lore
見沼通船掘りの近辺をあるく。地図の上でなく地形を見ながらあるくのは、愉しい。

今は見沼代用水 芝川 見沼代用水 という川と運河がある。そこに八丁堤があって、それは東と西にわかれていて、間に芝川がある。

八丁とは一丁の8倍で約880m 浦和の附島と川口の木曽呂を結んでいる、八丁の長さある。幅は 西縁のさくのところから、159歩あった。おおよそ、90mくらいか。

江戸時代始めはこの水の流れはなかった。見沼という沼があった。低いところだったようだ。ここに八丁堤を築いた。年表によると、江戸初期の1629年 寛永6年まるでダムのようですね。南側は平地の塀やがみえる。であった。ここに溜井ができた。 この溜井の地図がある。ダムを築いたので、低地に水がたまる。地図を見ると、今の万年寺、片柳、三室氷川神社、大宮、大和田は埋まっていない。

田圃は水がはいるでしょうが、雨がたくさん降ると埋もれるでしょう。年表には1714年舟が転覆して、30名死亡とのっている。

この八丁堤のような工事の仕方を、伊奈流とか、関東流とよんでいるようだ。

地形をよんで、こういう灌漑のしかたをする。今の未曾有の東日本大震災の災害をみると、地形で高台が重要な要素となっている。

この八丁堤のうえに先日歩いた赤山街道がある。木曽呂をとおって、与野まで十ている。ずっと、高台をとおている。

法光寺のスダジイ

2011-02-22 19:49:39 | folk lore
「スダジイ」の大木の下にある腰掛けに座りしばし庭を眺める。スダシイは椎の木で、トトロの大きな守り神のように、早い春にに日差しをたっぷりあいだから見せていた。木目が美しい山門をくぐると「イヌツゲ(市指定天然記念物)」を中心に手入れの行き届いた庭がある。イヌツゲは二つあって、雌雄の形にうえられていた。幹は太く年輪をかんじさせた。しかし、人の高さでバッサリきられていた。かれそうになったのか。その幹の根元から這い出た新芽がおおきく、人の高さほどに伸びていた。小道はセメントを塗ったばかりで、上に木で囲いがしてあった。

日蓮宗の文字がいたるところにあった。南無妙法連… 仲間の家が日蓮といっていた。少なくとも、興味をしめして、そのお言葉の立札を携帯で写真をとっていた。

永昌寺の茶色の塀

2011-02-22 19:28:49 | folk lore
明るい茶色の塀に囲まれた寺は絵になるように綺麗だった。門前の白梅が見事に咲き誇っていた。畑の風景のなかに、この寺の塀が長く線を引いていてその茶色のいろに白梅が大きく咲いて、中国の歴史ある、田舎の風景の寂しさを思わせた。

この寺までの道が分からず、角の大きな家のおじさんに聞くと着やすく人懐かしそうに教えてくれた。まわっていくと、広いうちの裏門にまた顔をみせにきて、また教えてくれた。びっくりした。その顔は日焼けして、厳しい山里の寒さに耐えた皺が、親切そうな笑顔をさらに美しくしていた。

向こうにその茶色の塀が見えた。寺の中はひろくて、ひっそりしていた。誰にも会わなかった。

曹洞宗と出口の山門に書かれていた。

妙玖寺の軒丸瓦

2011-02-22 19:02:12 | folk lore
妙玖は山内一唯のお母さんのお名前である。一唯と一輝と妙玖の墓所となっていて、古いお墓がひっそりと、並んでいる。マンサクの花が満開で枯れた葉がいくつかついたままであった。住職の女性がゆかりのひとで、本家が高知でこちらが分家だといっていた。本家は神社でこちらは寺であると、なんどもいっていた。本家の当主は現在東京にすんでいる。用事のときのみ、高知にいかれているようだ。宝物は高知に寄付されたといっていた。

今のかたのお母様が市指定文化財を承諾されたそうで、墓の倒れそうなときの修理の申請に、5年も費やした。といっていた。土佐の本家を保つため、養子入りをしたという話をしてくれた。

今年は蠟梅の咲き具合がわるかったようだ。樹木に覆われた境内はひっそりと眠っているようだった。

陣屋は今はなくて農家になっているということだった。赤山街道の陣屋を思い出した。陣屋には大きな一般の家があった。中の庭をみたと思ったけれど。昔の幕府直轄領の面影をおもわせるものは、なくなっていっている。

軒丸瓦の模様は、かわりとさがしわと教えてくれた。宗派は真宗大谷派ということだ。東本願寺の系統だといわれた。境内に大きなイチョウの木があって、毎年その実を拾って、水に浸し、手で皮を剥いて、檀家さんにお配りしていると言っていた。苦労話はきりがないようだ。

山内氏ゆかりの寺々

2011-02-22 18:27:50 | folk lore
秋葉神社周辺の地は、江戸開幕後の元和9年(1622)、土佐藩主山内一豊の甥にあたる山内一唯(かずただ)が、二代将軍秀忠から指扇領三千石を賜り領主となり、中釘村とよばれたこの地陣屋を構えた。秋葉神社の西側には、今も屋号が「陣屋」といわれる、遠藤家、「堀の内」の小川家がある。このあたりはさしお扇でも最も標高がたかく、来た・西・南三方に低地が広がっている。

この辺りを東西に走る道にそって、妙玖寺・永昌寺・法光寺・と阿弥陀寺がある。秋葉通りを行けばよい。二車線どうろであるが、寺はそこから少しはいりこむと見つけられる。さながら歴史街道の趣がある。

食べ物やさんなど店は一軒もない。トイレは秋葉神社でがよい。歩くことそぞろ歩きで、見学時間もいれ、3時間はかかるだろう。

指扇秋葉神社

2011-02-22 17:58:56 | folk lore
秋葉神社はだれもいなかった。やっとであったオジサンが教えてくれた。神社のこまごました修理をしているようだ。女の人もいた。箒でまだ雪のある、庭を掃除していた。広く静かな、ところだった。
「火伏の神」として、信仰されている。

オジサンが「ひぶせ」といわれて、神社をみると、「火防・盗賊」と書いている。「とうな」ともいっている。盗難のこどだ。オジサンは子供のころからここに育っている。といってひとなつっこそうに、いろいろ教えてくれるのですが、独特の方言ことばで、聞き取れないがそれでも伝わってきた。4月18日(金曜)と、12月18日に朝からお祭りがあるという。遠く東京からもお客さんが見えるようだ。

駐車場も公園もトイレも十分ある。無料で。弁財天もあった。

本をみると、4月と12月は例大祭があり、特に12月は多くの露天商が所せましと軒を並べ、老若男女、遠方からも参拝者が集まり、大変な賑わいを見せるようだ。ぜひ4月地には行ってみたい。高木におおわれた境内は広い。本殿の「下り竜」の彫刻はみごとといわれるが、残念保護のためまれない。

伝統の秋葉ささら獅子舞(市指定文化財)の懊悩が7月15日前後の土曜日、蝉時雨のなかでおこなわれる行事もあるという。