a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

文化の雑種性:でも本当の主題は

2010年08月17日 | 読書
雑種文化 日本の小さな希望 (講談社文庫 か 16-1)
加藤 周一
講談社

このアイテムの詳細を見る


 西川長夫先生と話をしていたとき、加藤周一の話題になったことがある。西川先生はそのとき、加藤について批判的なことを言っていた。詳しい説明はしていなかったが、「西洋の文化は純粋」で「日本の文化は雑種」であるという二項対立の単純さを批判的に捉えてのことだろうと推察できる。

 実のところ、様々な文化研究が進んだ現在では、「西洋文化が純粋」ということは現実にはなくて、そこには様々な文化が雑多に存在したことが明らかになっている。加藤が「純粋」ととらえる「西洋の文化」は、結局のところ国民国家が成立した結果生まれた文化形態にすぎない。それは、ある特定の歴史的文脈の中で生まれた特殊な文化形態であり、加藤はそれを「純粋」ととらえていると、考えられる。
 そうした「純粋性」は、結局のところ「想像」あるいは「捏造」されたものであり、彼はそれを見抜けていないのだ、そう考えることもできなくはない。

 ただし、だからといってこの本が意義が全くないということではない。この本は、文化の雑種性について書かれている本であるというよりも、nationalな枠組みの中で西洋対日本という対立を、加藤がそして彼の世代が、どのように考えようとしていたのかを考える上で、非常に意義がある(なお、加藤は国民主義という概念を一貫して使い、そしてそれを自らにも適用している)。

そう考えるなら、この本に「翻訳の問題」をめぐる論考が修められていることにも納得がいく。

 つまり、現代的な意味で、カタカナ語で用いられるナショナリズムに陥ることなく、西欧と日本の対立図式を真摯に考察しようとした(無論そこには時代的な制約がある)、そうした試みの書であると。
 加藤が置かれた時代状況、あるいは戦後に様々な国をめぐり、その中で日本について考えたという彼特有の情況を考えると、偏狭なナショナリズムに陥ることなくそうした思考をできたことはむしろ驚きに値する。そうした意義を見落としてはならないのではないかと思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。