犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

橋本治著 『その未来はどうなの?』より

2012-12-19 23:10:45 | 読書感想文

p.191~

 言うまでもなく当たり前のことですが、民主主義はズルをします。どうしてかと言えば、「なんでも話し合いで決める」ということになっていて、話し合いで決められないことなんかいくらでもあるからです。考えてみれば、「なんでも話し合いで決める、話し合いで決められる」という前提自体がズルの温床です。

 話し合いで決める民主主義の世界でどうしてズルが横行するのかと言えば、話し合いをする人達が、その結論を「自分の有利になる方向」へ導こうとするからです。誰も「自分が損をするための議論」なんかしたいとは思いません。力による決着を封じはしても、民主主義は「言葉の戦いによって決着をつけるもの」であって、その「戦い」は「自分の有利になる方向を目指す」です。この目指し方だけは、凶悪な独裁者と変わりません。

 私がなぜ、「民主主義は民主主義のままで変わらないだろう――変わりようがないから」と言うのかといえば、「力で押さえ込む独裁者がいなくなった代わりに、国民の全部が王様や独裁者の性格を獲得して、自分の利益ばかりを追求するようになったから、収拾がつかなくなったため」です。民主主義が当たり前になって、どこからでも「民主主義は正しい」の支援の声が飛んで来るようになってしまったら、自分の利益を主張するさまざまな人間を「黙らせる」ということが出来ません。


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 私が結構偉い(と思っていた)学者から教え込まれた「正しい民主主義」とは、少数派の意見も尊重しつつ、とことんまで議論を尽くした民主主義であり、数の横暴は許されず、強行採決などもってのほかだというものでした。このような理論は非常にスッキリしており、民主主義の本質について自分が頭を悩ませることがない代わりに、現実の社会に対する不満が激しいという特徴を備えていたように思います。

 思い起こしてみれば、このような学者は全て強固な思想を持っており、議論の中身の「賛成・反対論」とシステムの「多数・少数論」が一体となっていたように記憶しています。そして、その学者の支持政党はいつも少数派であり、常に数の論理で押し切られるという憂き目を見ていたようです。このような思想が仮に多数派ともなれば、数の論理に変節することは容易に想像できますが、そのような機会もないため、理論はスッキリし続けていたのだと思います。