犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

若林亜紀著 『国会議員に立候補する』より

2012-12-17 22:06:02 | 読書感想文

p.250~

「選挙うつでひきこもりに」より
 落選のショックはじわじわと後から襲ってきた。当選者の喜びの様子や初仕事の報道は、まぶしすぎて見るのが嫌になった。やがて政治ニュース全般を避けるようになり、ついにはテレビをつけたり新聞を開いたりすること自体が億劫になった。内にこもって頭に浮かぶのは、あの時こうしておけばよかったという、選挙の反省であり、自省であった。何をする気力も起きなくなり、身だしなみにもかまわなくなり、鬱々とした気分の日々が続いた。

「落選者の会が行われる」より
 元キャスターの真山氏も打ち明けた。「選挙に落ちたということは、自分が認めてもらえなかったということ。だから、家を一歩出ると、まわりの人が敵のように見えてしまい、外に出られなくなりました。もう引越したいほどです」。ほとんどの出席者が同調した。渡辺代表は、「それは選挙うつといいます。落選者は皆かかるんです。ですが、うつになる人はまともです。選挙躁というものあります。選挙の興奮状態が延々と続くんです。こちらのほうがやばい」と言った。


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 裁判において法の不備が問題となると、必ず「司法権は立法に踏み込むことができない」、「投票箱を通じて反映される民意に委ねられている」との論理で話が打ち切られます。例えば、危険運転致死傷罪の条文の抜け穴は大事故のたびに現前化しており、「制御が難しい高速度の運転」の文言が大まかすぎる点や、現場から逃げたほうが罪が軽くなる点の問題は明らかですが、長らく無策のままです。無免許、暴走行為、病気の無申告などによる事故についても、立法府が動いておらず先に進んでいません。

 法学的に「投票箱と民主政」「選挙を通じた主権者の意思」と言われるとき、その投票箱は抽象的であり、主権者も得体の知れない人々の集団です。この議論は、常に頭だけで考えられた原理原則論であり、生きた人間の息遣いは全く聞こえない種類のものです。他方で、実際に投票箱を通じて主権者の審判を仰いだ若林氏の「選挙うつ」の体験談は、このような机上の空論を拒んでいます。立法府の法改正が遅々として進まないことの苦悩は、こちらの意味の投票箱において捉えられなければならないと思います。

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