犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

三浦博史著 『あなたも今日から選挙の達人』より (2)

2012-12-16 23:08:24 | 読書感想文

p.108~

 選挙区の有権者や後援会員の名簿管理をするソフトも存在します。選挙ソフト先進国のアメリカの場合、イシュー(課題)調査を頻繁に行います。これは「あなたは原発に賛成ですか、反対ですか」「妊娠中絶には賛成ですか、反対ですか」といった課題別(イシュー)調査で、行政機関等が実施し、PRコンサルタント会社等が、投票所ごとの調査結果のデータを入手し、地図上にその調査結果の賛否のパーセンテージ等をカラーで表示するのです。たとえば、51%以上賛成の地域は赤、30%~50%は黄、30%未満は青などのカラーで地図上に表示します。

 立候補者がそのような情報を入手すれば、ある課題について自分が賛成なら、赤色の地域に行けば賛成が51%以上いるので、そこでは強く賛成だと発言する。しかし、30%未満の青地域に行けば、その問題はほどほどにして、別の問題を強く主張する。アメリカではこのような形の選挙戦術が一般的に行われています。つまり、本来人海戦術で処理すべき膨大な選挙情報を、コンピュータで処理してしまうわけで、わが国でも主に後援会員の様々な情報を管理するための選挙ソフトがいくつか販売されています。


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 18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーは、「選挙民が自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるや、否や選挙民は奴隷となり無に帰してしまう」と述べました。しかし、候補者を当選させるための戦略・戦術が高度化し、専門的な選挙プランナーの手に国民がかかっている状況下では、事態は逆になっていると思います。私自身の実感としては、議員を選挙する間のほうが奴隷であるような気分です。

 三浦氏によれば、選挙プランナーの仕事は、選挙が終わった次の日から再び始まるそうです。すなわち、次回の選挙での再選に向けて、休む暇もないということです。政治家としてのイメージアップ、支持者への後援会報やネット戦略など、プランナーの仕事は長期にわたっているようです。「国民のレベル以上の政治家は生まれない」との格言もありますが、国民が選挙の間まで奴隷となる状況では仕方がないと思います。

三浦博史著 『あなたも今日から選挙の達人』より

2012-12-14 21:10:35 | 読書感想文

p.62~
 通勤ラッシュのときに駅頭で辻立ちをしたり、候補者が目立つ格好をし、運動員のボランティアがノボリを持って商店街を練り歩くといった運動(桃太郎)をすることも一法ですが、ドブ板選挙の中心は何といっても「個別訪問」です。候補者は、普段ベンツに乗っていても、立候補表明と同時に大衆車に乗り換えるのは常識でしょう。

p.67~
 一般的に、教育、高齢者福祉、医療問題、犯罪防止、青少年問題、環境問題など、どの陣営でも通用しそうなグローバルインタレストの政策だけを並べるというだけでは勝てません。候補者のこれまでの人生のなかで、自分が経験した仕事、スポーツ、趣味などから発想したエキスパートイシューを1つでも打ち出すことは効果的でしょう。

p.90~
 ポスター等の広報物をつくる際の重要なポイントとしてカラーがあります。私が常に勧めている「勝ちカラー」とはその人に最も合ったカラーのことで、このカラーリングは欧米の選挙では常識となっています。この手法は広告代理店やデザイナーが候補者の持つイメージ等から選ぶのではなく、世界的に多く採用されている本人の生年月日から勝ちカラーを割り出すカラーリング手法です。

p.193~
 ウグイス嬢が乗っているとウグイス嬢にマイクを任せることが多いのですが、候補者本人が乗っているときは、マイクはなるべく候補者が自ら握りましょう。たとえば、交差点の信号で止まったとき、横の赤いライトバンから人が手を振ってくれた場合、候補者がマイクを取って「赤いライトバンの中から、熱いご声援ありがとうございます。山田太郎です。頑張っています」というわけです。

p.242~
 選挙においてマスコミ的な建前では、有権者はその候補の政策から判断して投票することになっています。けれども、これはあくまでマスコミおよび有権者の建前であって、本当に政策で選ぶ人など、私は5パーセントもいないと思います。有権者が山田太郎という候補者に投票したとすれば、「対抗馬の政党が嫌い!」「山田さんって感じがいい」「駅前で山田さんが街頭演説しているところを見たから」「山田さんは近所だから」といった理由が本心でしょう。


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 18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーは、「選挙民が自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるや、否や選挙民は奴隷となり無に帰してしまう」と述べました。しかし、候補者を当選させるための戦略・戦術が高度化し、専門的な選挙プランナーの手に国民がかかっている状況下では、事態は逆になっていると思います。私自身の実感としては、議員を選挙する間のほうが奴隷であるような気分です。

 三浦氏によれば、選挙プランナーの仕事は、選挙が終わった次の日から再び始まるそうです。すなわち、次回の選挙での再選に向けて、休む暇もないということです。政治家としてのイメージアップ、支持者への後援会報やネット戦略など、プランナーの仕事は長期にわたっているようです。「国民のレベル以上の政治家は生まれない」との格言もありますが、国民が選挙の間まで奴隷となる状況では仕方がないと思います。

京都・舞鶴市女子高生殺害事件 逆転無罪判決(2)

2012-12-13 22:25:49 | 国家・政治・刑罰

 憲法や条約は生命の尊重を定めていますが、社会科学の客観的思考は、時に形而上的な生命及び死への敬意と畏怖を意図的に欠落させることがあると感じます。そして、情況証拠の積み重ねによって被告人が真犯人かどうかを推論する場面において、その特質は顕在化するように思います。「人は死ななければならないのに何故生きなくてはならないのか」という厳しい問いが死者と遺族に厳しく突き刺さっている反面で、形而下ではこの究極の問いから逃れつつ議論を進めることができるからです。

 法律学からは「厳罰よりも被害者の心のケアが大事である」といった提言がよくあり、遺された者の心理カウンセリングや立ち直りの重要性が論じられています。しかし、この事件のように、発生から4年半が経つ間に、裁判の進行状況に応じて被告人が犯人になったり犯人でなくなったりして、被害者遺族の心のケアの大前提の部分がその都度論理的に混迷を極め、手の施しようがなくなる点については、法律学は完全に行き止まりだと思います。修復的司法の「赦し」の理論も、この場面を避けていると感じます。

 もとより法律学は遺族の生を捉えるだけで限界ですが、哲学は死者自身の1人称の死を捉えます。人間が言葉を語るのではなく、人間が言葉に語られているという事実において、生者と死者の区別はないと思います。そして、生者が沈黙のうちに死者の言葉に耳を傾ける際に、このような裁判で語られている言語が人の死を弄ぶことになる事実は明らかだと思います。死者から「私を殺したのは○○だ」との言葉を奪い取り、代弁することは、生き残っている者の奢りだからです。

 形而下の法律論と形而上の哲学論は議論の前提が違うため、絶対に噛み合わないと思いますが、人の生命や死を語る際の言葉は、法律的なものよりも哲学的なものが論理的に先に来るはずだと思います。学問としての小難しい理屈や優劣の問題ではなく、人間が生きて食べて寝て働いて生活する人生の形式に関して、私自身はそのように感じているところです。(これもあくまで私個人の考えであり、他の方に押しつけるものではありません。)

京都・舞鶴市女子高生殺害事件 逆転無罪判決

2012-12-13 00:05:16 | 国家・政治・刑罰

 あらゆる法律問題について一つ一つ論理の上での解決の道筋をつけていったとき、最後の最後に残されるのが、「無罪判決が言い渡された殺人事件の被害者遺族」だろうと思います。そして、無論その中でも優劣はつけられませんが、殺人が逆縁をもたらした場合の無罪判決は、その我が子をこの世に生み出した両親の人生を粉砕するだろうと思います。もとより人間が作る法は不完全なものである以上、法律家は無罪判決が被害者遺族の人生を破壊する現実の前に謙虚でなければならないはずです。

 天災と人災を比較した場合、人災をもたらす際の不可欠な構成要素が、人間の脳内の抽象名詞です。そして、その抽象名詞が物理的な動きを生じさせる場合よりも、脳内で作られた抽象名詞の束であるシステムのみで人間の精神を破壊させる場合が、絶望的な人災の極致だろうと思います。この言語による構成物の最たるものが法であり、特に殺人と死刑を定める刑法のシステムです。刑法によって崩壊させられた人生の足跡を辿るとき、私はその限界点に「無罪判決が言い渡された殺人事件の被害者遺族」の存在を見ます。

 人間は必ず間違いを犯すものであり、法律は不完全であるという命題は、法律学においては「絶対に冤罪をなくす」という点でゴールに達します。灰色無罪であろうと冤罪であろうと、1人の無辜をも罰しないために99人を無罪放免にすれば終わりです。しかし、法律家が拠って立つこの理論は、あくまでも半面の正義であり、これを絶対化して事足れりとするのは法律学の驕りだと思います。そのゴールの先の先を見れば、最後の限界まで深い絶望が続いており、しかも出口のない苛酷な人生を強制される者が必ず生み出されています。

 弁護士にとって、無罪判決の獲得は憧れの的です。弁護士人生に燦然と輝く勲章であり、裁判官からも検察官からも一目置かれます。特に、死刑と無罪という究極の二択が生じ得る場面において、死刑台からの生還を勝ち取った弁護士は、まさに弁護士名利に尽き、天にも昇る心地だろうと想像します。人間が行うことは不完全である以上、有罪と無罪には互換性があり、1審と2審の結論も人為的に変わります。今回の弁護士は、文字通り無罪を奪い取ったのであり、一生忘れられない瞬間になったことと思います。

 それでは、その瞬間に同時に生じた被害者遺族の絶望について、その発生に寄与した弁護士はどう考えているのかと言えば、何も考えていないと思います。私自身の狭い経験からですが、建前を除いた本音の部分をストレートに述べれば、「知ったことではない」という心情が最も強いはずです。被告人の側からのみ物事を見ていると、別の角度からのピントが合わないということです。また、被害者遺族の側に何が起ころうとも、「正当な弁護活動が責められるべきではない」という憤慨以外の心情は起きないだろうと思います。

尼崎市連続殺人・行方不明事件 角田美代子容疑者の自殺

2012-12-12 22:26:36 | 時間・生死・人生

 尼崎の事件については、犯罪心理学の権威からお茶の間に至るまで、日本人は多くを語れなかったように思います。次々と明るみに出る事実を前にして、自分の意見など持ちようがなく、何らの教訓も見出せないからです。人間が持っているはずの一線を軽々と越えられ、突き抜けられてしまっては、唖然とするしかないと思います。そして、角田容疑者のような人間の前では誰しも蟻地獄に引き込まれ、逃げようがないことを知るとき、その恐怖を通じて死者への哀悼の念が辛うじて呼び起こされるように感じます。

 今回の件に接し、法律家が激しい衝撃を受けるべき点が、法というものがここまで徹底的に無視されていたという事実だと思います。「人を殺してはいけない」「生命は地球より重い」という規範には何の権威も力もなかったということです。ここでは、死刑に伴う抑止力の議論も無意味です。また、このような殺人犯には更生の余地もなく、死刑存廃論自体が無意味になります。刑事政策学の論壇も、想定外で手に負えない事件は見なかったことにして、自分の研究課題に勤しむしかないものと思います。

 大事件や大事故にショックを受けて絶句する日本人の感性が、年々鈍くなっているのは確かだと思います。角田容疑者の一連の行為は、人間の本性そのものであり、古今東西の歴史の残虐さの続きであるとも言えます。しかしながら、情報化社会における感性の緩さは、当然このような洞察の結果ではなく、血で血を洗う戦国時代の残虐さよりも角田容疑者のほうに迫真性が生じています。匿名のネットで自我が肥大した状況下では、人間は一種の無法地帯に身を置いており、殺意に関する考察が浅くなっている点も大きいと思います。

 あらゆる点が想定外であったこの事件の報道が、国民の善悪の観念の深い部分に衝撃を与えたことは疑いないと感じます。そして、動機がわからない、手口が想像を超える、公権力を有していない、豪邸に住んでいる、長期間発覚しなかったといった現実が、仮説と検証、理論と実践を旨とする刑事法学に与えた破壊力も大きいと思われます。最初に顔写真の取り違えが責められ、最後に県警の落ち度が責められ、わかりやすい論点に飛びつかれたのも、情報化社会における規範意識の変質を示すものだと思います。

川上徹也著 『あの演説はなぜ人を動かしたのか』

2012-12-10 00:03:47 | 読書感想文

p.6~

 すぐれた演説・スピーチには、人々の心を大きく動かす力があるのです。バラク・オバマに限らず、数多くの政治家や活動家が、演説の力で人々の心を動かし、その後の歴史を大きく変えてきました。こうした彼らの演説を分析すると、必ずと言っていいほど使われている手法があります。それは「ストーリー」を語ると言うことです。人間はストーリーが大好きな動物です。

 ストーリーは世の中にあふれ返っているのです。しかも、その構造はどれも驚くほど似ています。なぜなら、人はある特定のストーリーのパターンに出合うと、思わず心が動いてしまう性質を持っているからです。以下の3つの要素が含まれていることが「ストーリーの黄金律」です。
 (1)何かが欠落した、もしくは欠落された主人公
 (2)主人公がなんとしてもやり遂げようとする遠く険しい目標・ゴール
 (3)乗り越えなければならない数多くの葛藤・障害・敵対するもの


p.51~

 『人を動かす』『道は開ける』などの世界的なベストセラーを持つ、デール・カーネギーは、その著書の中で、人を動かすには以下の3つの欲求に訴えかけるのがいいと語っています。
 (1)金銭欲
 (2)自己保存(健康でいたい)欲
 (3)プライド


p.86~

 ビジネスにおいて、会社や商品や個人に3つの異なるレベルのストーリーがあり、それが矛盾なく1本に合わさっていると、ファンが集まり、周りから応援してもらいやすくなるというものです。それは演説にも応用がききます。3つの異なるレベルのストーリーとは、以下の3つです。
 (1)志のストーリー
 (2)ブランド化のストーリー
 (3)エピソードのストーリー


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 情報化社会において国民に発信される言葉は、どれも非常に練られていて、プロの参謀役であるコンサルタントによる用意周到な分析を経ていると感じます。言葉の専門家にも色々ありますが、自問自答して心の奥底を掘り下げる専門家の言葉には値段がつきにくいと思います。これに対し、間髪を入れずに機関銃のように繰り出される言葉を前提に、マスコミ対策どころかこれを利用してしまう技術を授ける専門家の言葉には値段がつきやすいと思います。

 「言葉が人の心を動かす」と言われますが、人の心が動くところは目で見えませんので、これは事実を述べた嘘だと思います。すなわち、「言葉が」という言葉が嘘なのではなくて、「心を動かす」という言葉が嘘なのだと思います。「人を動かす」というのも、その対象となる人を意のままに操るということであり、心底からの腹黒さを感じます。優れたコンサルティングは詐欺に等しいと思いますが、上手い言葉に騙されていると、それと解っていても逆らえない部分があり、言語の騙りは避けがたいと思います。

山内和彦著 『自民党で選挙と議員をやりました』より

2012-12-08 23:42:36 | 読書感想文

p.131~ (ある地方議会の新人議員と交通局の担当者とのやりとりです。)

 僕が一般質問に立つ前も、やはり事前折衝は細かく行いました。初めて質問した内容は「バス路線の渋滞緩和について」。そのときの事前のやりとりを書くとこんな具合になります。

山内議員: とにかくものすごい渋滞なので、例えば道を広げられないものかと。

交通局の担当者: おっしゃる通りですが山内先生、これは交通局の管轄ではないのではっきりとは言えませんが、道路を広げるというのは難しいと思います。

山内議員: 部分的でもいいんです。

担当者: 予算が必要になりますから。

山内議員: 例えば、渋滞する交差点に右折レーンだけ設けるとかはどうでしょう?

担当者: この道路は、既に整備が終了していますから、新たに整備するのはやはり難しいでしょうね。

山内議員: 停留所にバスベイだけ造って、後続車がつっかえないようにするのも難しいですか?

担当者: 同じですね。先生、この問題は、もう少し別の角度から考えたほうがいいと思います。何ができるのか、時間をかけていろいろと検討を重ねてみてはどうでしょうか?

 とまあ、こんな感じです。新人議員が予算などお構いなしに道路拡充を訴えてもお話にならないわけです。もちろんこんなやり取りを本会議でやっても時間がもったいないので、事前折衝は必要になるのでしょう。

 バス渋滞についてはその後、バスナビの導入による運行システムの見直しなど、形を換えて一般質問になりました。最後は役所側が答えられるような格好に丸く収まったわけですが、これは議員に対する役所側の配慮もあったと思います。いつまでも道路拡充を唱えていても、状況を理解できないアホ議員になってしまいますから。


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 「交通安全は世界の願い」という標語が仮に空想なお題目なのであれば、そもそも政治という行為の意義も変わりますし、政治家という職業の意義も変わってくると思います。交通事故がそれぞれ別々であっても、そこから絞り出される願いがどれも「二度と悲惨な事故で同じような思いをする人がいなくなるように」という言葉に収斂するのであれば、これを具体的に聞けるのは政治家のみです。形而上的な生命の問題には無力であることを前提に、形而下の部分の施策を進めること、すなわち歩道やガードレールの整備、信号機や歩道橋の設置、危険運転の取り締まりなどにつき、理念でだけでなく実際に行動できるのは政治家のみです。

 ところが、上記のようなことを考えると恥ずかしくなるほどに、現実の議員という職業は、その反対方向から言葉を聞かないと務まらない職業だと思います。「二度と悲惨な事故で同じような思いをする人がいなくなるように」という言葉の意味を理解できなければ議員たる資格はなく、かつ理解できていては議員たる資格はないというのが現実なのだと思います。山内氏の「お話にならない」「状況を理解できないアホ議員」という言い回しは強烈です。青雲の志が現実の前に挫折し、立ち上がってみたらいつの間にか狡猾な世渡り上手になっていたという世の習いの好例だと思います。

 人間の生き様として、「志の高さ」と「世間擦れ」は対になっており、「本音」と「建前」も対になっています。政治的に何事かを成し遂げようとする際には、本音と建前の使い分けが不可欠だと思いますが、このどちらを「志の高さ」に結びつけるかによって、その仕事ぶりも変ってくるものと思います。また、その候補に投票した人々の生き様も変わってくるものと思います。

三浦博史著 『勝率90%超の選挙プランナーが初めて明かす~心をつかむ力』

2012-12-07 00:03:16 | 読書感想文

p.192~

 「ドブ板選挙」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 英語で言うと「ドア・ツー・ドア」です。こうしたドブ板選挙のことを私たちは最近では「地上戦」と呼んでいます。地上戦では、ドア・ツー・ドアで候補者がそれぞれの有権者と会って、握手をし、話をします。そうすることで前回の選挙でその候補者に投票した有権者もさらに親近感を深めて、今回の選挙でもまた入れてくれるようになるのです。

 ただし、一度取った票を逃さないという意味では選挙と選挙の間も非常に大事で、その間、候補者は有権者あるいは支持者にできるだけ働きかけを行わなければなりません、でないと、支持者から「自分がせっかく1票を入れてやって当選したのに、その後1年以上もウンともスンとも言ってこないし、姿を見たこともない」というクレームが出てきます。

 その程度ならまだしも、「何だ、あいつは。選挙中は何度も電話を寄こしたのに! 選挙後は何も言ってこなくなった」というふうに怒らせてしまうと、もう票は二度と戻ってきません。次の選挙のときに「またよろしく」と頼んでも、その支持者からはソッポを向かれてしまいます。地上戦は、選挙期間以外の取り組みも含んでいるのです。


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 有権者が選挙のたびに思い当たって脱力することは、「政治屋は次の選挙を考え、政治家は次の世代を考える」という点だと思います。他方で、「自分がせっかく1票を入れてやって当選したのに」「選挙後は何も言ってこなくなった」という思いも、多くの有権者の記憶にあるだろうと思います。私にも「自分がせっかく1票を入れてやったのに」という不満は思い当たる節があり、自分が1人の人間ではなく1票という数にされたことに憤慨してしまい、次はその候補者に投票しませんでした。

 「議員は選挙と選挙の間くらいは次の選挙のことを忘れて、次の世代のことを考えてほしい」という有権者の率直な思いは、これだけ専業のプランナーが分析を重ね、マーケティングの手法が発達した現代では、もはや望むべくもないのだろうと思います。「次の世代を考えているところを有権者は見てくれているだろう」という素人考えでは、戦略マネジメントの前に惨敗を喫するからです。結局、「次の選挙のために『次の世代を考えています』というところを見せておく」という政治屋が勝利に近付くのだと思います。

全国町村議会議長会編 『問答式・選挙運動早わかり』

2012-12-06 22:04:17 | 読書感想文

p.28~
問: 事前運動と立候補の準備はどう違うか。
答: その限界はなかなか微妙で、事実についての判定による場合が多いが、要するに投票依頼の意思がなく、純粋に準備行為として行われるものならばよいということになる。後援会の結成にしても、その目的が当人を当選させることにあることが明らかな場合、その組織の結成方法や活動内容のいかんによっては選挙運動と認められる。


p.32~
問: ふつうの政治運動は事前運動にならないか。
答: いわゆる党勢拡大を目的とする政党活動のような一般の政治活動は、選挙運動に似ているが選挙運動ではない。ただ、これらの政治活動でも、単にそれに名を借りるだけで、実は投票を得るのが目的である場合は、選挙運動となり、事前運動の禁止規定にふれてくる。


p.95~
問: 明るく正しい選挙をとなえて立候補している者があるとき、「明るく正しい選挙推進のため」の署名運動を行う場合は署名運動の禁止規定に反しないか。
答: その特定候補者のためにしているものであるかどうか、その他の事実関係で判断するほかはない。


p.113~
問: 演説会場では、その演説会の開催中に、どんな文書・図画でも使用できるか。
答: 使用するポスター、立札、看板の類の大きさは縦273センチ、横73センチを超えることはできない。ちょうちんの大きさは高さ85センチ、直径45センチ以内である。ちょうちんは会場内外を通じて1個しか掲示できないが、ポスター、立札、看板の類は会場外で通じて2個以内であるが、会場内では数に制限がない。


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 選挙が行われると、必ず公職選挙法違反による検挙があり、裁判所も法律事務所も急な対応に追われます。法律を作る人間を選ぶための選挙に精通しているということは、法律の抜け穴を測る技術にも長けているということであり、穴の存在自体は問題にならなくなるのが普通です。現場でこの点に疑問を呈しても、「そんな抽象論を言って暇があったら、ポスターや看板の大きさをしっかり測れ」と怒られるということです。

 個々の選挙違反行為に細かく入り込んでいると、選挙における争点がどれも無意味に思われ、地に足が着かない寝言のように感じられることがあります。景気・経済対策も、医療・年金などの社会保障の問題も、原発・エネルギー政策も、TPPの問題も、どこか遠い国の無関係な話のように思われてきます。その反面、「他のことはどうでもいいからとにかく当選したい」という人間の本性が切実感を持って迫ってきます。

「衆院選・議論の外……被災地怒りと失望」より

2012-12-04 22:27:27 | 国家・政治・刑罰

河北新報 12月2日 KOLnet
「争点『復興』どこへ 衆院選・議論の外……被災地怒りと失望」より

 東日本大震災後、初めてとなる衆院選(4日公示、16日投開票)で、政治が優先的に取り組むべき「震災からの復興」が争点からかすんでいる。11月30日の党首討論会でも、被災地については議論が交わされずじまい。国政の主要な課題に隠れ、埋没した感すらある。「見捨てられた思い」「震災を忘れたのか」。被災地に怒りと失望、落胆が渦巻く。

 岩手県釜石市平田の平田第6仮設団地の自治会長を務める森谷勲さん(70)は「被災地の復興は置き去りにされているようだ」と政治不信を募らせる。民主党は「復興が最重点」、自民党は「まず、復興」、日本維新の会は「復興のための体制づくり」、公明党は「復興日本」とうたう。共産党や社民党は復興予算の「流用」阻止を掲げる。しかし、各党が意見を戦わせるのは専ら、エネルギー政策としての原発、環太平洋連携協定(TPP)、経済政策だ。

 宮城県東松島市商工会の橋本孝一会長(64)は「選挙が近づくにつれ、復興が話題に上らなくなった。被災地がないがしろにされている」と言う。資材やマンパワーの不足、雇用の場の創出、復興予算の無駄遣い――と課題は残されたままだ。橋本さんは「いずれも政治が解決すべき問題ではないのか」と訴える。自治体の首長からも注文が付く。奥山恵美子仙台市長は会見で、復興の議論が不足していると苦言を呈した。


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 「地震・津波被害」と「エネルギー政策としての原発問題」の関係は、「犯罪被害」と「刑罰」の関係に類似していると思います。地震と津波は天災であるのに対し、原発事故は人災です。そして、天災は運・不運で語られてしまう出来事であり、事後処理は政治的な課題でありながら、通常は世論を二分する対立が起こりません。被災地は必ず復興して立ち直り、人々の精神的な傷も必ず癒えるという動かぬゴールだけが存在するからです。そして、このゴールは観念的であり、無関係な人には忘れられやすいものだと思います。

 これに対し、原発の再稼動に関する賛成・反対の議論は、必然的に激しい戦いを生みます。有識者の興味や知性も人災のほうに集中するものと思います。これは、犯罪における死刑論議・冤罪の問題と同様の構造であり、その陰で生じてしまった犯罪被害が議論の外に置かれている状況とも同じです。すなわち、天災の被害者と同じく、犯罪被害者は必ず立ち直り、心の傷も癒えるべきだというゴールだけが存在するからです。そして、このゴールも観念的であり、世間からは忘れられやすいものだと思います。

 昨年の日本は、どこを見渡しても「絆」「がんばろう日本」「被災地に元気と勇気を与える」「1日も早い復興」ばかりでした。これらのフレーズは、どのような政治的な立場であっても正面から反対を表明できる筋合いのものではなく、しかも押し付けられることに対して別段不自由も感じないものだと思います。時の経過とともに関心が薄れ、自然と聞かれなくなることが最初から了解済みだからです。犯罪被害に対する、「思いやり」「理解」「支え合う」「分かち合う」といった無色透明な単語との名状し難い類似を感じます。