犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

尼崎市連続殺人・行方不明事件 角田美代子容疑者の自殺

2012-12-12 22:26:36 | 時間・生死・人生

 尼崎の事件については、犯罪心理学の権威からお茶の間に至るまで、日本人は多くを語れなかったように思います。次々と明るみに出る事実を前にして、自分の意見など持ちようがなく、何らの教訓も見出せないからです。人間が持っているはずの一線を軽々と越えられ、突き抜けられてしまっては、唖然とするしかないと思います。そして、角田容疑者のような人間の前では誰しも蟻地獄に引き込まれ、逃げようがないことを知るとき、その恐怖を通じて死者への哀悼の念が辛うじて呼び起こされるように感じます。

 今回の件に接し、法律家が激しい衝撃を受けるべき点が、法というものがここまで徹底的に無視されていたという事実だと思います。「人を殺してはいけない」「生命は地球より重い」という規範には何の権威も力もなかったということです。ここでは、死刑に伴う抑止力の議論も無意味です。また、このような殺人犯には更生の余地もなく、死刑存廃論自体が無意味になります。刑事政策学の論壇も、想定外で手に負えない事件は見なかったことにして、自分の研究課題に勤しむしかないものと思います。

 大事件や大事故にショックを受けて絶句する日本人の感性が、年々鈍くなっているのは確かだと思います。角田容疑者の一連の行為は、人間の本性そのものであり、古今東西の歴史の残虐さの続きであるとも言えます。しかしながら、情報化社会における感性の緩さは、当然このような洞察の結果ではなく、血で血を洗う戦国時代の残虐さよりも角田容疑者のほうに迫真性が生じています。匿名のネットで自我が肥大した状況下では、人間は一種の無法地帯に身を置いており、殺意に関する考察が浅くなっている点も大きいと思います。

 あらゆる点が想定外であったこの事件の報道が、国民の善悪の観念の深い部分に衝撃を与えたことは疑いないと感じます。そして、動機がわからない、手口が想像を超える、公権力を有していない、豪邸に住んでいる、長期間発覚しなかったといった現実が、仮説と検証、理論と実践を旨とする刑事法学に与えた破壊力も大きいと思われます。最初に顔写真の取り違えが責められ、最後に県警の落ち度が責められ、わかりやすい論点に飛びつかれたのも、情報化社会における規範意識の変質を示すものだと思います。