犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中央道・笹子トンネル崩落事故 (2)

2012-12-03 23:03:53 | 時間・生死・人生

(1)から続きます。


 第4にビジネスマンの関心が向かうのが、物流への影響の点だと思います。中央自動車道は東京・名古屋・関西圏を結ぶ物流ルートの大動脈であり、かつ年末でお歳暮などの物流が急増する時期にもあたっています。通行止めが長期に及べば、代替ルートの大規模な渋滞などの影響が避けられないことに加え、トンネルの開通時期が不明のままでは物流各社の運行計画の見直しにも混乱が生じるものと思います。事故は一瞬ですが、「経済のグローバル化・高度情報化・規制緩和による厳しい競争の時代」は長く続き、しかも日々激しく流動しているからです。

 流れの速い現代社会では、他者に対する繊細な共感力を有していては身が持たず、取り残されるだろうと思います。「尊い命が失われた」という恐るべき現実を表わす言葉は、年々軽くなるどころか、稚拙な論理であるとして嘲笑の対象にもなっていると感じます。人の生死に対して何らの敬意もない言葉から身を守るためには、殻を作って閉じこもるしかなく、これは沈黙に通じます。また、事故現場のその瞬間に身を置き、言葉の消失点に絶句することは、やはり沈黙に通じます。かくして、語られる言葉は語られ、語られない言葉は語られないのだと思います。

 この事故の報道では、「行方不明者は7人に上るとみられる」「県警はワゴン車から複数の焼死体を発見した」「乗用車内に人数不明の焼死体らしきものがあると発表」などといった表現が多く、生と死の境界が不明になる感じがします。今の今まで生きていた者が一瞬にして死者となるとき、主観と客観の境界も不明にならざるを得ないと思います。トンネルに入るまでは全員が他人の死体を数える側だったのが、ある者は間一髪で難を逃れて事故の惨状を語りながら全身を震わせ、別の者は「人数不明の焼死体らしきもの」と報道されるとき、科学的に語られる評論の虚しさを感じます。

中央道・笹子トンネル崩落事故 (1)

2012-12-03 22:51:09 | 時間・生死・人生

 このような事故の一報に接した場合、一般的なビジネスマンはどのように反射的に頭が動くかと言えば、まずに損害賠償の点だろうと思います。一般的に想定されている交通事故においては、加害者側が対人賠償保険に加入しているのかが最初のチェック事項です。ところが、今回のような場合、保険はどうなるのか、誰がどのように賠償するシステムなのか良くわかりません。いかなる問題に直面しても、まずは落としどころであるゴール地点を設定し、それを経済的に処理する問題解決の手法を心得た者は、まずこの点に頭が動くだろうと思います。

 次に関心が向かうのが、中日本高速道路株式会社の経営陣の立場だろうと思います。旧日本道路公団は天下り・談合などの利権の温床であると批判され、特殊法人改革により民営化されたのは記憶に新しいところです。現在の社長は、官僚OBを排除するとの国土交通省の意向により、2年前に就任したばかりだと聞きます。組織の力学に精通した者にとっては、突然の事故により出処進退や法的責任が問題とされるトップの立場への複雑な心情が先に立ち、「運が悪い」という感想が強く生じるだろうと思います。

 第3に関心が向かうのが、このような事故が起きた場合に対するリスク管理の点だと思います。企業の中で生きる者において、組織の危機管理体制の構築や適切な初期対応の技術は死活問題だからです。正確な情報を収集することを前提に、適切な時期に記者会見を開き、被害者や世間に対して謝罪しつつ、今後の対応方針についての適切な説明が行われなければ、事態は悪化します。起こってしまった事実に対してどのように対応するのか、その巧拙を傍観して他山の石とするのが、企業戦士の一般的な思考の形だろうと思います。

(2)に続きます。