犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (3)

2012-12-28 00:04:15 | 読書感想文

名古屋地方裁判所への意見陳述より

 真実を知ることが親に出来る最後の役割だと思っても、被告からの連絡もなく、事故の経緯や情報を得る手段はありませんでした。辛く苦しく、悶々とした時間を過ごさなければなりませんでした。結局、被告の行動は、自分の不確定な想いには目を向けることなく、自分が『青』であるという偽りを、自己保身のためだけに、惜しまず努力しつづけたと言わざるを得ません。その行為に私達は耐えがたい苦悩の日々を過ごしているのです。

 人はいくら取り繕った言葉を発しようと、思いは伝わるものです。真の謝罪は何度も言葉にしなくとも伝わるものだと思っています。残念ながら被告からは、運が悪かった、私も被害者だという思いが、相変わらず伝わってきます。私達は、被告に対して、交通事故を起こした加害者への感情と言うよりも、事故後に起こしているさまざまな行動を、人の道として許す事が出来なくなったのです。

 人を憎んだり恨んだりしても、そこからは何も生まれてはきません。気持ちの優しかった有希が、望む事でもない。私達は事故自体をそのように捕らえていたのです。実際、警察の遺族聴取も一度目は、私達も運転する身ですのでといった寛容な内容の発言をしました。しかし、被告のあまりに不誠実な数々の行動に、私達の気持ちは変わり、厳罰に処して欲しいといった内容に調書を作成しなおしてもらったのです。

 もし、被告が、始めから真実を語っていてくれたならば、もし始めから自己保身ではなく、被害者、被害者家族にたいしての思いからの行動であったならば、そう思うと本当に残念でなりません。被告の父親は、私達に何度も言いました。「娘は4年間安全運転でした」と。それが何だと言うのでしょうか? 実際には、たった4年で一つの命を奪い、一人の少女に心と身体に大きな傷を与え、多くの被害者を生み出した事実があります。


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 新風舎の本を初めて手に取った日から、私も法律実務の世界でさらに揉まれ、人間の汚い部分を見せつけられてきました。この汚い部分は、他人の中に明確に見える時には自分の中にも漠然と存在し、逆もまた同じでした。私は多くの罵詈雑言を浴び、自分からも暴言を吐いてきました。

 世の中には表と裏があり、本音と建前があり、綺麗事の底には権謀が張り巡らされています。人間は保身のために長いものに巻かれ、自己弁護のために口裏を合わせます。そして、罪を免れて罰から逃れるためならば、人は可能な限りの屁理屈を使い、汚い手を使い、自分自身にも嘘をつきます。

 これらの人間の行動は、人間存在の弱さや悲しさの必然的な表れだと思います。そして、法制度は人間が弱い存在であることを前提として、人間が嘘をつくことを認め、犯した罪を否認する権利を認めています。また、法は、この弱さに基づく保身としての嘘を述べる行為に対し、正義の地位を保障します。

 しかしながら、娘を失った母親の側にある語り得ぬ沈黙の深さ、そしてそれが言葉にならないゆえに「それ」が「それ」である言葉の真実を前にすれば、法が人為的に認める正義の論理は太刀打ちできないものと思います。この沈黙の中から示される論理には、嘘が絶対に入り込まないからです。

(続きます。)

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