犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山内和彦著 『自民党で選挙と議員をやりました』より

2012-12-08 23:42:36 | 読書感想文

p.131~ (ある地方議会の新人議員と交通局の担当者とのやりとりです。)

 僕が一般質問に立つ前も、やはり事前折衝は細かく行いました。初めて質問した内容は「バス路線の渋滞緩和について」。そのときの事前のやりとりを書くとこんな具合になります。

山内議員: とにかくものすごい渋滞なので、例えば道を広げられないものかと。

交通局の担当者: おっしゃる通りですが山内先生、これは交通局の管轄ではないのではっきりとは言えませんが、道路を広げるというのは難しいと思います。

山内議員: 部分的でもいいんです。

担当者: 予算が必要になりますから。

山内議員: 例えば、渋滞する交差点に右折レーンだけ設けるとかはどうでしょう?

担当者: この道路は、既に整備が終了していますから、新たに整備するのはやはり難しいでしょうね。

山内議員: 停留所にバスベイだけ造って、後続車がつっかえないようにするのも難しいですか?

担当者: 同じですね。先生、この問題は、もう少し別の角度から考えたほうがいいと思います。何ができるのか、時間をかけていろいろと検討を重ねてみてはどうでしょうか?

 とまあ、こんな感じです。新人議員が予算などお構いなしに道路拡充を訴えてもお話にならないわけです。もちろんこんなやり取りを本会議でやっても時間がもったいないので、事前折衝は必要になるのでしょう。

 バス渋滞についてはその後、バスナビの導入による運行システムの見直しなど、形を換えて一般質問になりました。最後は役所側が答えられるような格好に丸く収まったわけですが、これは議員に対する役所側の配慮もあったと思います。いつまでも道路拡充を唱えていても、状況を理解できないアホ議員になってしまいますから。


***************************************************

 「交通安全は世界の願い」という標語が仮に空想なお題目なのであれば、そもそも政治という行為の意義も変わりますし、政治家という職業の意義も変わってくると思います。交通事故がそれぞれ別々であっても、そこから絞り出される願いがどれも「二度と悲惨な事故で同じような思いをする人がいなくなるように」という言葉に収斂するのであれば、これを具体的に聞けるのは政治家のみです。形而上的な生命の問題には無力であることを前提に、形而下の部分の施策を進めること、すなわち歩道やガードレールの整備、信号機や歩道橋の設置、危険運転の取り締まりなどにつき、理念でだけでなく実際に行動できるのは政治家のみです。

 ところが、上記のようなことを考えると恥ずかしくなるほどに、現実の議員という職業は、その反対方向から言葉を聞かないと務まらない職業だと思います。「二度と悲惨な事故で同じような思いをする人がいなくなるように」という言葉の意味を理解できなければ議員たる資格はなく、かつ理解できていては議員たる資格はないというのが現実なのだと思います。山内氏の「お話にならない」「状況を理解できないアホ議員」という言い回しは強烈です。青雲の志が現実の前に挫折し、立ち上がってみたらいつの間にか狡猾な世渡り上手になっていたという世の習いの好例だと思います。

 人間の生き様として、「志の高さ」と「世間擦れ」は対になっており、「本音」と「建前」も対になっています。政治的に何事かを成し遂げようとする際には、本音と建前の使い分けが不可欠だと思いますが、このどちらを「志の高さ」に結びつけるかによって、その仕事ぶりも変ってくるものと思います。また、その候補に投票した人々の生き様も変わってくるものと思います。