犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

河野裕子著 『うたの歳時記』 その2

2012-12-30 22:33:40 | 読書感想文

p.53~ 「年の暮」より


 風をもて天頂の時計巻き戻す 大つごもりの空が明るし (永井陽子『ふしぎな楽器』)

 人事は複雑多岐にうち過ぎてゆくが、四季の廻りは正しく同じ歩みと周期をくり返す。だから、1年の終わりに、天頂の時計を巻き戻すのである。天頂の時計とは、四季の廻りに統べられて運行する時間を測る時計のことであろう。名称はどのようであれ、その時計は必ず存在する。天頂の時計の巻き戻し可能なのは、大つごもりの日のみ。知的に傾きがちな発想を、詩情ゆたかに明晰な構図の中に歌い、他の大つごもりの歌とはひと味のちがいを見せる。


 しづかなる旋回ののち倒れたる 大つごもりの独楽を見て立つ (岡井隆『蒼穹の蜜』)

 広辞苑閉づれば一千万の文字 しづまる音す大年の夜を (高野公彦『天泣』)

 大晦日のことを、大つごもりとも大年ともいうが、右の2首は、1年最後の日を、いずれも「しづかなる」、「しづまる」と静かな感慨のもとに詠んでいる。1年間、独楽も広辞苑をそれぞれに奮闘をして来たのである。独楽と広辞苑に重なって作者のその1年の身の処し方が見えてくる。1年の最後の日に、ひとまずはそれに区切りをつけるのだ。2首共に、「大つごもり」や「大年の夜」を他のことばに置きかえることも可能だろう。しかし、「大つごもり」や「大年の夜」であることによって、これらの歌の示すニュアンスは全く変わったものになる筈である。


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 「大晦日」「大つごもり」「大年」という言葉はそれぞれ語感が異なり、クオリアという次元でしか説明できないような感慨を生じるものと思います。そして、それは自分の人生に対する感慨にも通じるものだと思います。但し、社会のグローバル化に対応して小学校から英語が必修化され、コミュニケーション能力を高める必要性が広く報じられている社会で生きていると、このような日本語の美しさへの感性そのものが無意味になっていると感じる瞬間がよくあります。

 今年1年間を振り返ってみると、人間としての規範や道徳のような形のないものは、誰かが破り始めると次々と堰を切ったように破られるという点が改めて思い浮かびます。しかも、今の時代は各々が自分自身のことで手一杯であり、上記の点について真剣に考える時間的・精神的余裕もないという現実にも直面します。弱肉強食の世知辛い社会の状況の下で、「大つごもり」「大年」の日本語の語感は、もう日本には必要ないものになってしまったとの感も持ちます。

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