犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (2)

2012-12-27 23:51:46 | 読書感想文

p.35~

 もっとたくさん、あんなこともしてあげたかった。こんなところへも連れて行きたかった。決して取り戻すことの出来ないこれから先の長い将来を、ただ悔やむことしか出来ない母。

 前向きに歩いていくことが、何よりも残されている私達のするべきことだと分かっていても、頭で分かっていても、娘が突然に逝ってしまったことは、あまりに理不尽で、どう思いあぐねても納得いくことができません。ただ深い悲しみとともに、心の中でぽっかりと空いてしまった穴を埋めることが出来ずにいるだけです。

 人は、何をもって人の死とするのだろうか? 呼吸をしなくなった有希の肉体とお別れをしなければならなかった3日間。気が狂いそうになり、何度も奇声をあげて暴れまわりたい衝動に駆られました。棺を霊柩車に乗せようとするときには、「やめてー」と叫んで阻止したかった。

 有希の横たわる身体は、もう二度と動くこともなく、呼吸をすることもない。全ての機能が停止してしまった肉体は、葬らなければいけないのか。いっそこのまま、一緒にいれたらいいのに。呼吸をしてなくとも、動かなくとも、ずっとずっと目の前に存在していて欲しい。この世に現象として存在して欲しい。本気でそう思っていました。

 ひと言それを、口に出せば、きっと気がおかしくなっていると思われるか、子供を亡くしているから、そう思っていたかもしれないと思われたでしょうか。人になんと思われようと、物言わなくなった有希と3日間一緒にいた私は、その肉体さえも、奪われることがどうしても納得がいかなかったのです。最大限に抵抗していたかった。阻止出来なかったこと、棺から手を放した自分のことを許せないでいました。


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 法律事務所の仕事で、自費出版をめぐるトラブルの案件を扱っており、現在の日本の出版業界の構造を色々と知らされています。私が持っている『ある交通事故死の真実』は新風舎のものですが、同社は平成20年1月に倒産し、現在は文芸社からの出版になっています。

 一般の書店ではいかにも軽薄な本が平積みにされ、「これ1冊で幸せになる本」や「これ1冊で夢が叶う本」が何百冊と並んでいる中で、これほどの渾身の手記を自費出版でなければ世に出せない出版業界は、人間の言葉を消耗品として扱っているのだという感を強くします。

 私は、自動車運転過失致死罪の裁判に数多く携わり、多数の公文書(公務所の作成)や公用文書(公務所の使用)を読んできました。検察官の論告要旨では「遺族の処罰感情は激烈である」という定型句が、弁護人の弁論要旨では「被告人は心から反省している」という定型句が、それぞれ使い回されています。

 これらの文書に比し、自費出版本は私用文書(権利・義務に関する文書)ですらなく、文書の法的価値は低く位置づけられています。しかし、「愛娘の生きてきた証を軌跡として形に残したい」という母親の言葉は、公務書の定型句の欺瞞性とは対照的に、言葉が本来語るべきところのもののみを語っているのは明らかだと感じます。

(続きます。)

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