憲法や条約は生命の尊重を定めていますが、社会科学の客観的思考は、時に形而上的な生命及び死への敬意と畏怖を意図的に欠落させることがあると感じます。そして、情況証拠の積み重ねによって被告人が真犯人かどうかを推論する場面において、その特質は顕在化するように思います。「人は死ななければならないのに何故生きなくてはならないのか」という厳しい問いが死者と遺族に厳しく突き刺さっている反面で、形而下ではこの究極の問いから逃れつつ議論を進めることができるからです。
法律学からは「厳罰よりも被害者の心のケアが大事である」といった提言がよくあり、遺された者の心理カウンセリングや立ち直りの重要性が論じられています。しかし、この事件のように、発生から4年半が経つ間に、裁判の進行状況に応じて被告人が犯人になったり犯人でなくなったりして、被害者遺族の心のケアの大前提の部分がその都度論理的に混迷を極め、手の施しようがなくなる点については、法律学は完全に行き止まりだと思います。修復的司法の「赦し」の理論も、この場面を避けていると感じます。
もとより法律学は遺族の生を捉えるだけで限界ですが、哲学は死者自身の1人称の死を捉えます。人間が言葉を語るのではなく、人間が言葉に語られているという事実において、生者と死者の区別はないと思います。そして、生者が沈黙のうちに死者の言葉に耳を傾ける際に、このような裁判で語られている言語が人の死を弄ぶことになる事実は明らかだと思います。死者から「私を殺したのは○○だ」との言葉を奪い取り、代弁することは、生き残っている者の奢りだからです。
形而下の法律論と形而上の哲学論は議論の前提が違うため、絶対に噛み合わないと思いますが、人の生命や死を語る際の言葉は、法律的なものよりも哲学的なものが論理的に先に来るはずだと思います。学問としての小難しい理屈や優劣の問題ではなく、人間が生きて食べて寝て働いて生活する人生の形式に関して、私自身はそのように感じているところです。(これもあくまで私個人の考えであり、他の方に押しつけるものではありません。)