犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

京都・舞鶴市女子高生殺害事件 逆転無罪判決(2)

2012-12-13 22:25:49 | 国家・政治・刑罰

 憲法や条約は生命の尊重を定めていますが、社会科学の客観的思考は、時に形而上的な生命及び死への敬意と畏怖を意図的に欠落させることがあると感じます。そして、情況証拠の積み重ねによって被告人が真犯人かどうかを推論する場面において、その特質は顕在化するように思います。「人は死ななければならないのに何故生きなくてはならないのか」という厳しい問いが死者と遺族に厳しく突き刺さっている反面で、形而下ではこの究極の問いから逃れつつ議論を進めることができるからです。

 法律学からは「厳罰よりも被害者の心のケアが大事である」といった提言がよくあり、遺された者の心理カウンセリングや立ち直りの重要性が論じられています。しかし、この事件のように、発生から4年半が経つ間に、裁判の進行状況に応じて被告人が犯人になったり犯人でなくなったりして、被害者遺族の心のケアの大前提の部分がその都度論理的に混迷を極め、手の施しようがなくなる点については、法律学は完全に行き止まりだと思います。修復的司法の「赦し」の理論も、この場面を避けていると感じます。

 もとより法律学は遺族の生を捉えるだけで限界ですが、哲学は死者自身の1人称の死を捉えます。人間が言葉を語るのではなく、人間が言葉に語られているという事実において、生者と死者の区別はないと思います。そして、生者が沈黙のうちに死者の言葉に耳を傾ける際に、このような裁判で語られている言語が人の死を弄ぶことになる事実は明らかだと思います。死者から「私を殺したのは○○だ」との言葉を奪い取り、代弁することは、生き残っている者の奢りだからです。

 形而下の法律論と形而上の哲学論は議論の前提が違うため、絶対に噛み合わないと思いますが、人の生命や死を語る際の言葉は、法律的なものよりも哲学的なものが論理的に先に来るはずだと思います。学問としての小難しい理屈や優劣の問題ではなく、人間が生きて食べて寝て働いて生活する人生の形式に関して、私自身はそのように感じているところです。(これもあくまで私個人の考えであり、他の方に押しつけるものではありません。)

京都・舞鶴市女子高生殺害事件 逆転無罪判決

2012-12-13 00:05:16 | 国家・政治・刑罰

 あらゆる法律問題について一つ一つ論理の上での解決の道筋をつけていったとき、最後の最後に残されるのが、「無罪判決が言い渡された殺人事件の被害者遺族」だろうと思います。そして、無論その中でも優劣はつけられませんが、殺人が逆縁をもたらした場合の無罪判決は、その我が子をこの世に生み出した両親の人生を粉砕するだろうと思います。もとより人間が作る法は不完全なものである以上、法律家は無罪判決が被害者遺族の人生を破壊する現実の前に謙虚でなければならないはずです。

 天災と人災を比較した場合、人災をもたらす際の不可欠な構成要素が、人間の脳内の抽象名詞です。そして、その抽象名詞が物理的な動きを生じさせる場合よりも、脳内で作られた抽象名詞の束であるシステムのみで人間の精神を破壊させる場合が、絶望的な人災の極致だろうと思います。この言語による構成物の最たるものが法であり、特に殺人と死刑を定める刑法のシステムです。刑法によって崩壊させられた人生の足跡を辿るとき、私はその限界点に「無罪判決が言い渡された殺人事件の被害者遺族」の存在を見ます。

 人間は必ず間違いを犯すものであり、法律は不完全であるという命題は、法律学においては「絶対に冤罪をなくす」という点でゴールに達します。灰色無罪であろうと冤罪であろうと、1人の無辜をも罰しないために99人を無罪放免にすれば終わりです。しかし、法律家が拠って立つこの理論は、あくまでも半面の正義であり、これを絶対化して事足れりとするのは法律学の驕りだと思います。そのゴールの先の先を見れば、最後の限界まで深い絶望が続いており、しかも出口のない苛酷な人生を強制される者が必ず生み出されています。

 弁護士にとって、無罪判決の獲得は憧れの的です。弁護士人生に燦然と輝く勲章であり、裁判官からも検察官からも一目置かれます。特に、死刑と無罪という究極の二択が生じ得る場面において、死刑台からの生還を勝ち取った弁護士は、まさに弁護士名利に尽き、天にも昇る心地だろうと想像します。人間が行うことは不完全である以上、有罪と無罪には互換性があり、1審と2審の結論も人為的に変わります。今回の弁護士は、文字通り無罪を奪い取ったのであり、一生忘れられない瞬間になったことと思います。

 それでは、その瞬間に同時に生じた被害者遺族の絶望について、その発生に寄与した弁護士はどう考えているのかと言えば、何も考えていないと思います。私自身の狭い経験からですが、建前を除いた本音の部分をストレートに述べれば、「知ったことではない」という心情が最も強いはずです。被告人の側からのみ物事を見ていると、別の角度からのピントが合わないということです。また、被害者遺族の側に何が起ころうとも、「正当な弁護活動が責められるべきではない」という憤慨以外の心情は起きないだろうと思います。