犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大井玄著 『「痴呆老人」は何を見ているか』

2009-06-13 23:50:35 | 読書感想文
p.59~ p.124~

グループホームの居間で、幾人かの女性が和気あいあいと談笑しています。アルツハイマー型の認知症と診断された方々で、どうも会話の内容がバラバラです。
「主人なんてやっかいなもんです。でもいないと困るし……」
「そうそう、うちの息子が公認会計士になりましたんで忙しくてね」
「あら、いいじゃないとっても。浴衣を着ればステキに見えるよ」
認知症のケアにあたる人の間でよく知られた「偽会話」ですが、「共に楽しむ」という情動レベルでは、コミュニケーションは立派に成立しています。論理より雰囲気、情報より情動が、生存にとって基本的に重要なのです。哺乳動物だけが情動という働きを発達させたのは、情動のない生物より生存に有利だからでしょう。コトバを用いた知的活動を細かく観察すると、喜び、悲しみ、怒りなどの情動が、その活動の基底に働いています。


p.85~ p.104~

わたしは、痴呆状態で観察される注意障害に似た現象とは、その人の「意図するイメージ」が、現実の環境を覆いつくして自分の環境世界を創りあげている状態、と解釈しています。実際、ベッドや注射器、医師と看護師がすぐそばに見えているのに、平然として「自分の家にいる」、看護師を「自分の娘だ」などと言う場合があります。現実においてこれらの事物が、わたしたちが認識する事物と乖離していても「意味」は通っています。それを是正する必要は無いのです。しかし世の中の「介護者」には、老人の「事物誤認」を叱り、矯正しようという教育的情熱に溢れた人がじつに多いのです。そのため老人は、せっかく見つけた「意味」を見失い、混乱してしまいます。


p.128~

終末期の痴呆老人をケアしていると、しばしば看取られている人が、「この世」と「あの世」が浸透しあった「あわい」の世界にいる、という印象を受けます。京大大学院で臨床心理学を専攻していた久保田美法氏は、老人病棟や老人ホームでの観察から次のように述べています。「自分が生きてきた歴史やなじみ深い人びと、ときにはご自分の名前さえ忘れていかれる痴呆では、その言葉も、物語のような筋は失われ、断片となっていく。それはちょうど、人が生を受け、名前を与えられ、言葉を覚え、『他ならぬこの私』の人生をつくっていくのとは反対の方向にあると言えるだろう。ひとつのまとまりあった形が解体され散らばっていく方向に、痴呆の方の言葉はある。それは文字通り、ゆっくりと『土に還っていく』自然な過程の一つとも言えるのではないだろうか」。


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近代的自我の確立は、同時に客観的・物理的世界の信仰をもたらした。この信仰は、非科学的な宗教を軽蔑し、科学的・実証的なデータを重視する。ここでは、主観的であることは感情に流されることであり、客観的で冷静な判断ができない状態であるとされる。ゆえに人は、ある時には物事を客観的に見られるようになることを求め、独断ではなく証拠から唯一の事実を認定しようとする。またある時には、人は自分自身を客観的に見られるようになることを求め、多角的かつ広い視野を持ち、グローバルな視点からバランスよく学ぶことの重要性を認識する。ここで得られる客観性とは、どう頑張っても、「もう一人の自分と対話すること」や「自分の行動をビデオにとって後で見返すこと」あたりが限界である。このような客観性は、残念ながら、認知症になってしまえばすぐに崩れる。大井氏は、このあたりの客観性信仰を、ユーモアを交えて暴いている。

認知症とは「主観と客観が一致していない状態である」というのが、客観的・物理的世界からの帰結である。ゆえに、介護者は客観的世界を正しく認識しているが、認知症の老人は客観的世界を正しく認識していないことが大前提となる。そして、介護者はその主観を無理に訂正することなく、適当に話を合わせておく技術が求められる。このようなマニュアル的な理論は数多いが、この大前提に立って認知症の老人を客体的に見下ろす者は、自分が将来認知症になったときのことを想像しようとしない。主観と客観の不一致は、あくまでも他人の不一致を他人事として見る場合のみに可能である。これに対して、自分が認知症になったときには、主観と客観は見事に一致してしまっている。そうだとすれば、この主観と客観の関係は、将来認知症になろうとなるまいと、人生のどの瞬間においても同じなのではないか。「われわれは皆、限度の異なる痴呆である」というこの本の帯のコピーは、とても含蓄のある恐ろしい冗談である。