犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

茂木健一郎・南直哉著 『人は死ぬから生きられる ― 脳科学者と禅僧の問答』

2009-06-21 19:14:47 | 読書感想文
第Ⅱ章 脳の快楽、仏教の苦 
「存在の根拠としての欠落」より  p.103~

茂木: コンピューターには親がいるわけではなく、とても合理的な設計とシステムのもとに生まれてくる。それに比べて、人間が生まれてくること自体、自分で選んだことではないし、基本的に不条理なものですよね。

南: だからこそ根本的に自己存在には根拠が欠けているということを人は受け入れられないんですよ。人間の存在の根本に、欠落がある。何か確かなものが存在して、それに意識が付け加わるということではなくて、人間の存在には何か根本的な欠落、あるいは喪失が原初にあるんだと思う。

茂木: そもそも、欠けるところから始まっている。

南: そう。古今東西、霊魂や死者に対して思想めいたものはあるわけでしょう。死者に対して、これだけ持続的な関心が続く生き物は人間以外にいないわけです。

茂木: 死者の陰に隠れたもっとエッセンシャルな何かがあるのかもしれない。「亡くなったお母さん」というとわかりやすいけど、それは別の喪われた何かの代償なのかもしれない、ということですね。

南: パズルのように凸凹を短絡的に結びつけてはいけませんがね。というのは、存在における原初的な喪失というのは、代償物では埋まらないと思うからです。「欠けたもの・失ったものを探す」というやり方では絶対に捉えられない。欠けた「もの」も無くなった「もの」もない。ただ「欠ける」んです。ただ「無くなる」んです。だから探しようがない。それを「何かが欠けた」と誤解すると、人はいろんなものをでっちあげてしまう。それが神や宗教、あるいは科学や経済や文化なのかもしれない。本当はただ欠けるだけなのに、欠けたということに対してそれを補おうとする力だけは常に働く。それが内部から力となって働いているとしか思えないんです。


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人は、夢の中で死者に出会うことがある。あるいは、目が覚めている状態であっても、死者に語りかけることができる。この端的な事実について、自然科学は非科学的な妄想であると断じ、「いずれ脳科学の進歩が人間の意識をすべて解明するだろう」との唯物論的な見解を示し続けてきた。これを受けた宗教は、唯物論を激しく拒絶しながら、人が死者に語りかけることができる根拠について、天国・霊界・来世といった方面の物語を作り上げてきた。いずれにしても、そこには人が実際に死者に語りかけていることのリアリティはなく、それぞれの解釈の仕方によって解っているにすぎない。ゆえに、それが「解らない」という人の存在に対しては、科学も宗教も、そのこと自体を解ろうとしない。科学の客観性や宗教の薀蓄は、すでにたった一つの正解を見抜いている以上、それが解っている人が賢いのであり、解っていない人は愚かだからである。何を言っても矛盾が起き、何を言っても正解にならないという状況は、科学からも宗教からも拒絶される。

人が死者に語りかけることは、茂木氏が捉えているところの脳科学から見れば、生きている者に語りかけることと何も変わることはない。従来の脳科学は、このような人間の限界の思考、すなわち科学の客観性それ自体を突き崩すような思考を宗教に分類し、非科学的であるとのレッテルを貼ってきた。そして宗教のほうも、本来言葉に表せないものを簡単に言葉に表し、自己存在の不安や欠落から逃避し、解釈を固定化してきた。人が死者に語りかけることの意味は、生きていた人が死ぬという取り返しがつかないことに直面して、言語と実体験の間を見ることができるか否かによって大きく変わる。なぜ天国や霊界など存在しないのに、人は死者に語りかけることができるのかと問われれば、そんなことはわからない。科学や宗教というものが、知の体系を積み上げていく作業であるならば、それは人が現に死者に語りかけられることの理由を明らかにすることはできない。