犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

蔵研也著 『リバタリアン宣言』

2009-06-23 00:14:39 | 読書感想文
この本は、2年半前に出版されたものである。それによれば、近年の社会哲学のトピックな議論は、「大きな政府」と「小さな政府」であるらしい。そして、前者は「高福祉型」「社民リベラル型」がキーワードであり、後者は「自由尊重主義」「リバタリアン」がキーワードである。しかしながら、これらのキーワードは、2年半が経っても、どれもメジャーにはなっていない。それどころか、「格差社会」「勝ち組・負け組」「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」といった後発的な造語に追いやられている。すなわち、人々の生活や実感に密着していない。この本には、3年前の郵政解散に伴う衆議院議員選挙を受けた日経の芹川洋一編集委員の言葉が引用されているが、その先見の明も面白い。「小泉さんが来年引退したら、小泉チルドレンが自民党を割って『リバタリアン新党』を作るというのも面白いかもしれない」(p.17)。「民主党は前原代表の下で自民党以上に小さな政府を目指すことによってその将来が開ける」(p.34)。

リバタリアニズムは、「国が個人に口出しをするな」「個人の自由に任せていればいいだろう」といった本能的なエネルギーをその根本に持つ。すなわち、自己完結としての自由ではなく、不自由の対概念としての自由を目的とする。しかしながら、「国家が個人に介入する」という大前提を疑っていない点において、「国家は個人の集まりである」という単純な事実が転倒している。従って、国家と個人は対立するものとなり、国家は個人の価値観の多様性を抑制する存在となる。リバタリアニズムは、国家による「貧困からの自由」は自由ではなく、国家が富める者に多額の課税をして貧しい者に再分配をすることは私的所有権の制限であり、フランス革命以来の財産的自由権の理念に反すると主張している。そうであるならば、「格差社会のどこが悪い」「フリーターやニートは一生負け組の人生を送れ」とまで言えなければ筋が通っていない。

頭の良い学者が精密に考えた理屈は、現実には使い物にならないことが多い。蔵氏も、無政府主義が理想的であり、人類は福祉国家から夜警国家・最小国家に戻るべきことを丁寧に立証している。しかし、目の前で「人員削減で失業してしまった人は、家族を抱えて明日からどうすればいいのでしょうか」「正社員が定時に退社しているのに派遣社員が残業させられて、しかも残業代が出ないんです」と言われてしまえば、途端に答えられなくなる。マクロ経済とミクロ経済の分離そのものがフィクションだからである。夜警国家・最小国家は壮大な体系を作らないことを目的としているが、それ自体が1つの壮大な体系になってしまっている。従って、目の前に「未来の国のあり方」を決める衆議院の選挙が迫っても、リバタリアニズムは何も使い物になっていない。与党も野党も口を揃えて「国民の生活を守る」と言うのみである。

官から民へ、規制緩和、民間にできることは民間へ。社会の進歩ということを考えれば、フリーターやニートが一生負け組の人生を送ろうとも、大した問題ではない。論理的にはこうなるはずであるが、今の世の中、大声でこのように言えば袋叩きに遭うため、筋の通ったリバタリアン宣言をすることは不可能である。これは、社会哲学のパラダイムの欠点でもある。人間の一生の時間を超える壮大な理論は、個々の人間を押し潰して全体主義となる。リバタリアニズムは、20世紀の最大の実験とその失敗である社会主義への反省をその論拠としている。そうであれば、1917年にソ連で生まれて1991年に死んでいったような無名の一庶民の人生には、いったいどのような意義があったのか。この問題は解決されないまま残る。結局、小泉チルドレンが自民党を割って「リバタリアン新党」を作ることもなく、民主党は前原代表の下で小さな政府を目指すことによって将来を開くこともなかった。

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