犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

刑事弁護の目指すもの

2009-06-17 23:11:30 | 国家・政治・刑罰
ある痴漢事件の被告・弁護側弁論

(例文1)
 被告人はこれまでにも何回も電車内で痴漢行為を繰り返し、そのたびに「二度と痴漢はしません」と誓ってきた。それにもかかわらず、今回も痴漢をしてしまったことについて、心の底から反省している。被告人は、被害者が「一生忘れることはできない」と述べていると聞き、反省の情を示すため、お詫びの手紙を書いた。
 被告人は今回初めて、自分はどのような時に痴漢をしてしまうのか、自分自身をしっかりと分析している。被告人が今回痴漢をしてしまったのは、会社で上司から怒られて、気分がムシャクシャしていたのが原因であった。これまで被告人が痴漢を犯した状況を見ても、会社でストレスが溜まった日の帰りに、つい誘惑に負けてしまったという現実がある。被告人は、このようなプレッシャーが自分自身を追い詰め、電車の中でストレスを解消してしまったことを深く反省するに至った。
 被告人は、今後は二度と痴漢行為をしないために、できる限り会社でストレスを溜めないように努力することを約束している。また、上司に怒られたりしてストレスを感じた日には、「今日は痴漢をしやすい日だ」と自分に言い聞かせるようにし、細心の注意を払って電車に乗り、意識的に誘惑を抑えるすることを固く誓っている。

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(例文2)
 被告人は、これまで痴漢行為を繰り返したことによって生じた現実に直面し、愕然とさせられた。被告人は、今この瞬間にも過去に自分が痴漢を犯した被害者がその傷で苦しんでいるかも知れないこと、自分の行為一つで何の罪もない他人の人生を台無しにした可能性があること、被害者の家族まで巻き込んで幸福な人生を奪い去ったかも知れないこと等の事実に真剣に向き合い、激しく自分を恥じている。
 被害者が痴漢行為を受けてしまった過去の事実は変えようがなく、被害者の身体の記憶として永遠に残る。また、被害者が今後何百回、何千回と同じ電車に乗り、同じ場所にさしかかるたびに痴漢に遭った事実を思い出す可能性があること、その意味で被害者が「一生忘れることはできない」と語るのは誇張ではなく端的な事実であることも、否定のできない客観的な現実である。被告人はこれらの現実に向き合い、軽々しく反省の弁など述べられないことを思い知った。
 被害者は今回の被害を頭では忘れたいにもかかわらず、本能的なフラッシュバックが起きてしまう可能性があり、それによって電車に乗るのが怖いと感じて生活全般に支障が生じる可能性もある。また、周囲の無理解に重大なセカンドレイプが生じるといった危険性もある。被告人は、これらの状況を色々と考えた結果、軽々しく被害者にお詫びの手紙など書けないとの結論に至った。


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上記の例文1と例文2を比べてみると、一見して例文2のほうが自らの罪と深く向き合っている。自己の犯した罪の本質を真剣に分析しているのみならず、正確には「同じ罪を繰り返すこと」が不可能である点も述べられている。被害者側の目線に立つことが、取りも直さず自分自身を正確に語ることになるという逆説の構造である。裁判官の眼から見ても、どちらの被告人に再犯の恐れが高いか、どちらの被告人に更生の可能性を感じるかは明らかであり、「罪と罰」の本質に迫っているのは例文2のほうである。しかしながら、例文2のような弁論は、実際の法廷ではまず見られない。これは、このような弁論がしたくてもできないのではなく、弁護人が法廷でこのような弁論をすることは好ましくないとされているからである。

被告人には無罪の推定が及んでいるため、被告人は被害者の身になる必要がないばかりか、被害者の身になってはならない。裁判とは罪を反省する場ではなく、起訴状に書かれた公訴事実の有無を確定する場だからである。従って、起訴状に書かれていない過去の犯行の被害者など、ますます裁判に持ち込んではならない。例文2のような弁論は、訴因制度からみても問題が大きい。これらが近代刑事裁判の大原則である。しかしながら、これらの大原則をすべて理解した上で、やはり例文1よりも例文2のほうに被告人の真剣さを感じるならば、これはもはやどうしようもない。日々の法廷では、例文1のような弁論が繰り広げられ、哲学的な「罪と罰」に立ち入ることもなく、過去の量刑相場に従って刑罰が決められてゆく。