犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

今村仁司著 『貨幣とは何だろうか』

2009-06-14 23:01:35 | 読書感想文
p.23~
近代という時代では、人は経済からも政治からも死の観念を追放する。かつて人間の歴史的世界には死の観念が充満していたし、その意味で歴史は宗教的であったが、近代では死の観念は経済や政治から分離されて制度としての宗教に委ねられる。

P.25~
貨幣が価値であることそのことは死の観念の受肉過程から生成するのだが、現実に機能する貨幣からは一切消え去っているから、貨幣と死の関係に気づくことは稀である。だから貨幣の経済学的考察のなかに死の観念とか、貨幣と死の関係が問題としてまったく登場しないとしても、ある意味では当然である。その限りでの妥当性を経済学的見方はもっているが、それ以上ではない。だからこそ貨幣の社会哲学的考察が必要になる。

p.92~
貨幣は経済生活では人間関係を円滑に媒介することが多い。だからといって、貨幣をあらゆることに関して媒介者として使うとなると、問題が生じてくる。シャルロッテは、墓の問題にまで貨幣を介入させる。墓は死者と生者の媒介形式である。貨幣は経済的人間関係の媒介形式である。ふたつとも同じ媒介形式であるが、活動の場を異にする。一方を他方で代替することはできない。これをとりちがえると恐ろしいことが出現する。

p.122~
貨幣や資本の問題は、けっして経済だけの問題ではなくて、それらの本性を文学的に認識するようにゲーテが促されたほどに、広く人間の根源に関わる問題であった。とくに19世紀の後半から貨幣や資本の問題が経済学者の独占物になる傾向がますます強くなるのは、まことに不幸なことだ。経済学は貨幣や資本を経済現象の範囲内でしかあつかわないし、しばしばそれらの素材的側面だけをあつかうようになる。


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資本主義の下での民事裁判には、どうしても解決できないジレンマがある。それは、お金を払ってもらうことが目的ではなくても、損害賠償請求という形を採らざるを得ないということである。お金が欲しいのではなく命を返してほしい、筋を通してほしい、間違いは間違いだと認めてほしい。しかしながら、どうしても裁判ではお金を払わせることが目的となるため、「本当はお金が目的なんだろう」「お金が欲しくないなら何で裁判しているんだ」という的外れの批判を許容してしまう。また、「どんなに多額でも誠意がこもっていないお金など受け取れない」「誠意がこもっているお金ならば少額でも受け取る」という正論は、お金を払う側に利益をもたらすという虚しい結果となる。

死者の命をお金で買えるというのか。死者の平均寿命までの逸失利益を賃金センサスから計算して、それで人は納得するのか。この問いに対する解答として、今村氏が述べるように貨幣のほうを死の観念から導くことは、1つの救いではある。貨幣は経済的にのみ捉えられる媒介物ではなく、社会哲学的に捉えてみれば、人間の根源に直接かかわっている。いかなる思想も、それが思考されている瞬間を過ぎて体系化されれば、それは思想の残骸である。同じように、いかなる物体も、それに価値が付与された瞬間を過ぎて貨幣と交換される状況に至れば、それは価値の残骸である。元々貨幣が死の観念を表象しているのであれば、命の穴埋めとして多額の賠償金を得ても報われないのは、あまりに当たり前のことである。

大井玄著 『「痴呆老人」は何を見ているか』

2009-06-13 23:50:35 | 読書感想文
p.59~ p.124~

グループホームの居間で、幾人かの女性が和気あいあいと談笑しています。アルツハイマー型の認知症と診断された方々で、どうも会話の内容がバラバラです。
「主人なんてやっかいなもんです。でもいないと困るし……」
「そうそう、うちの息子が公認会計士になりましたんで忙しくてね」
「あら、いいじゃないとっても。浴衣を着ればステキに見えるよ」
認知症のケアにあたる人の間でよく知られた「偽会話」ですが、「共に楽しむ」という情動レベルでは、コミュニケーションは立派に成立しています。論理より雰囲気、情報より情動が、生存にとって基本的に重要なのです。哺乳動物だけが情動という働きを発達させたのは、情動のない生物より生存に有利だからでしょう。コトバを用いた知的活動を細かく観察すると、喜び、悲しみ、怒りなどの情動が、その活動の基底に働いています。


p.85~ p.104~

わたしは、痴呆状態で観察される注意障害に似た現象とは、その人の「意図するイメージ」が、現実の環境を覆いつくして自分の環境世界を創りあげている状態、と解釈しています。実際、ベッドや注射器、医師と看護師がすぐそばに見えているのに、平然として「自分の家にいる」、看護師を「自分の娘だ」などと言う場合があります。現実においてこれらの事物が、わたしたちが認識する事物と乖離していても「意味」は通っています。それを是正する必要は無いのです。しかし世の中の「介護者」には、老人の「事物誤認」を叱り、矯正しようという教育的情熱に溢れた人がじつに多いのです。そのため老人は、せっかく見つけた「意味」を見失い、混乱してしまいます。


p.128~

終末期の痴呆老人をケアしていると、しばしば看取られている人が、「この世」と「あの世」が浸透しあった「あわい」の世界にいる、という印象を受けます。京大大学院で臨床心理学を専攻していた久保田美法氏は、老人病棟や老人ホームでの観察から次のように述べています。「自分が生きてきた歴史やなじみ深い人びと、ときにはご自分の名前さえ忘れていかれる痴呆では、その言葉も、物語のような筋は失われ、断片となっていく。それはちょうど、人が生を受け、名前を与えられ、言葉を覚え、『他ならぬこの私』の人生をつくっていくのとは反対の方向にあると言えるだろう。ひとつのまとまりあった形が解体され散らばっていく方向に、痴呆の方の言葉はある。それは文字通り、ゆっくりと『土に還っていく』自然な過程の一つとも言えるのではないだろうか」。


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近代的自我の確立は、同時に客観的・物理的世界の信仰をもたらした。この信仰は、非科学的な宗教を軽蔑し、科学的・実証的なデータを重視する。ここでは、主観的であることは感情に流されることであり、客観的で冷静な判断ができない状態であるとされる。ゆえに人は、ある時には物事を客観的に見られるようになることを求め、独断ではなく証拠から唯一の事実を認定しようとする。またある時には、人は自分自身を客観的に見られるようになることを求め、多角的かつ広い視野を持ち、グローバルな視点からバランスよく学ぶことの重要性を認識する。ここで得られる客観性とは、どう頑張っても、「もう一人の自分と対話すること」や「自分の行動をビデオにとって後で見返すこと」あたりが限界である。このような客観性は、残念ながら、認知症になってしまえばすぐに崩れる。大井氏は、このあたりの客観性信仰を、ユーモアを交えて暴いている。

認知症とは「主観と客観が一致していない状態である」というのが、客観的・物理的世界からの帰結である。ゆえに、介護者は客観的世界を正しく認識しているが、認知症の老人は客観的世界を正しく認識していないことが大前提となる。そして、介護者はその主観を無理に訂正することなく、適当に話を合わせておく技術が求められる。このようなマニュアル的な理論は数多いが、この大前提に立って認知症の老人を客体的に見下ろす者は、自分が将来認知症になったときのことを想像しようとしない。主観と客観の不一致は、あくまでも他人の不一致を他人事として見る場合のみに可能である。これに対して、自分が認知症になったときには、主観と客観は見事に一致してしまっている。そうだとすれば、この主観と客観の関係は、将来認知症になろうとなるまいと、人生のどの瞬間においても同じなのではないか。「われわれは皆、限度の異なる痴呆である」というこの本の帯のコピーは、とても含蓄のある恐ろしい冗談である。

池田小学校事件から8年

2009-06-12 23:54:54 | 言語・論理・構造
大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件から、先の6月8日で丸8年が経過した。同校では8日、追悼式典「祈りと誓いの集い」が行われ、遺族や在校生、教員らが出席し、犠牲になった8人の名前が記された「祈りと誓いの塔」を囲んで黙祷した。当時8歳だった娘を亡くした父親は、「娘が生きていれば16歳。16歳になった娘に会い、兄弟を交えて話がしたいです」と語った。また、当時7歳だった娘を亡くした母親は、「娘の名が塔に刻まれていますが、あの新しい校舎の中で歌うことも学ぶこともできないと思うと、とても悲しい」「事件の経験者がいた以前に比べると、今日は泣いている子は一人もいなくて、みんな本当に元気ではつらつとしていた。本来そうあるべきで、この姿を私たちは目指してきたが、それだけ人が入れ替わったということ」「きちんと言葉に出さなければ伝わらないことも、たくさん出てきたと思う」と話した。

何かにつけて、「景気が悪く仕事が忙しいのにお金が儲からないこと」を基準にしなければ話が始まらない昨今の社会において、「命の尊さを確かめて事件の教訓を伝え続けること」は、必然的に宙に浮く。同校校長は「事件を決して風化させることなく、学校安全にかかわる新たな取り組みを継続していく。学校が安全で安心感のある場所であることの大切さを伝え続けていく」と誓いを述べたが、このような誓いも必然的に矛盾を含んでしまう。生徒代表の答辞に述べられていたような「優しさがあふれ、笑顔の絶えない素晴らしい学校」になるためには、事件の瞬間の記憶などは有害である。また、すでに死刑が執行された宅間守被告の裁判を振り返ってみても、事件の教訓など何も得ることはできなかった。そのような中で、事件の記憶など全くない生徒は、当然ながら元気ではつらつとしていて、意味も良くわからないまま式典に出席させられ、実際に笑顔の絶えない学校が戻ってしまっている。それだけに、「きちんと言葉に出さなければ伝わらないこともたくさん出てきた」という言葉には切実感がある。

二度とこのような悲しい事件を起きないようにするとの決意から、8人の犠牲者の名が刻まれた塔を立て、8つの鐘を鳴らす儀式を行うこと、これはもちろん純粋な善意の結晶である。それだけに、観念は純粋化され、人間の心の中の微妙な違和感は見えにくくなる。この違和感とは、「校庭に笑顔が戻る」ことを目的とし、実際に校庭に笑顔が戻ってしまったならば、二度と校庭に笑顔で戻れない死者の存在が忘れ去られるという残酷な構造に気付く力である。悲しい事件に巻き込まれた人はもちろん、他の人にはこのような思いをしてほしくないと願うものであり、他の人にも同じ悲しみを味わわせたいとの願いは大っぴらに言えるものではない。ところが、実際に他の人が事件を忘れて平穏無事な生活を謳歌し始めたならば、事件の日で時間が止まっている人だけが取り残されることになる。そして、事件を語り継ぎ、事件を決して忘れない日は、今や1年間でたった1日だけになっている。「きちんと言葉に出さなければ伝わらないこと」とは、恐らくそのようなことである。

当時6歳だった息子を奪われた母親は、「傷を一生背負っていかなくてはならない。時が経過し、触れただけで痛むような傷ではなくなったが、心の奥深く静かに沈む悲しみになったのかもしれない」と語った。これは、心ならずも8年間かけて熟成されてしまった言葉が、これ以外にないという次元まで抽象的に具体化されて、経験のない他者に伝えうる力を持つようになったという種類の言葉である。ところが、あるニュースは、これに『「心の傷深い」と池田小事件遺族 今も悲しみ背負う』とのタイトルを付け、言葉を完全に殺してしまった。これは、文字数の制限という報道の形式に伴う言葉の変質である。「心の傷が深い」という表現はよく聞かれるが、この乱発に慣れることの恐ろしさとは、出来合いのマニュアル言語を形式的に使用することが一種の儀式になってしまうことである。「触れただけで痛むような傷ではなくなった」、それにもかかわらず「心の奥深く静かに沈む悲しみになった」という論理の流れを見てみれば、そこに言われていることは、「心の傷が深い」とは全く逆のことである。


「心の傷深い」と池田小事件遺族 今も悲しみ背負う(共同通信) - goo ニュース

ちょうど1年前の今頃

2009-06-10 00:03:50 | 時間・生死・人生
● 『加藤容疑者は小泉改革の犠牲者』
今回の通り魔事件は、加藤容疑者が解雇通告を受け、派遣社員の処遇への不満や将来を悲観して自暴自棄になり、社会へ怒りをぶつけたものと考えられる。加藤容疑者と17人の被害者は、元をたどって考えるならば、製造業への派遣労働を解禁した小泉改革の犠牲者である。むろん、17人もの市民を殺傷するような方法は許されない。しかし、加藤容疑者の抱いた怒りそれ自身は、まったく正当なものである。この点をあいまいにすると、この事件の根本的な原因も見えてこないのではなかろうか。

● 『不安定雇用の増大こそが犯罪』
加藤容疑者の罪は重い。しかし、労働の規制緩和を進めてきたすべての政治家、学者の罪がそれ以上に重いのだ。この事件を契機に、派遣制度の問題点が社会で注目されるのは良いことである。もはや派遣会社は、一部の見直しで済む問題ではなく、即刻廃止すべきである。また、こうした制度の改変をめぐる問題と平行して、今回の事件に即して、関連する企業の法的・社会的な責任が問われなければならない。不安定雇用を増大させ、加藤容疑者を生み出したこの社会の構造こそが凶悪犯罪者なのである。

● 『第2、第3の秋葉原事件が起きる』
加藤容疑者のケースは、本人の性格と非正規雇用者が置かれた絶望的な状況が絡み合ったものとみられる。政府はこのような事件の再発防止のため、派遣制度の見直しを早急に進めるべきである。今回の事件は、加藤容疑者1人を責めて済む問題ではない。いたずらに感情論に走ることなく、派遣労働者への規制のあり方は今のままでいいのかを冷静に考え、早急に対策を打つ必要がある。政府が常用雇用を増やす方向で緊急に見直しを進めなければ、第2、第3の秋葉原事件が起きることになるだろう。


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加藤被告に背後から刺され、現在も後遺症で休職しているタクシー運転手・湯浅洋さんは、事件から1年が経った6月8日、「加藤被告の顔すら見ていない。彼に恨みや怒りはわいてこない。しかし、いくらきつくても、自分を信じてやり直せばいいだけ。なぜ加藤被告にはそれができなかったのか。なぜ無関係な人を傷つけたのか。どうしても彼の口から理由が聞きたい」と述べた。

この事件の直後、まるで1億総評論家のように、日本人の多くは加藤容疑者の内心を本人に代わって暴き、この事件の唯一かつ最大の原因を語り、ある者は会社や学校で盛り上がり、またある者はネット上で熱く論争を繰り広げた。そのような無数の正解が述べられたにもかかわらず、実際の被害者に全く届いていないとは、いったいどうしたことか。去年の6月8日にはリーマンブラザーズが破綻しておらず、10月から年末にかけての派遣切りと非正規労働者の失業は想定外であったことは、もとより想定内のことである。

謝罪と反省

2009-06-09 23:42:21 | 実存・心理・宗教
● 「謝ることが、せめてもの誠意」 (足利事件に関して 朝日新聞の読者投稿欄)

記者会見で菅家利和さんは「自分の人生を返してほしい。間違ったではすまないんです」と訴えた。そして、「警察官や検察官を許すことはできない。謝ってほしい」と繰り返したという。怒りはもっともである。警察官や司法関係者は菅家さんの前で頭を下げてほしい。犯人特定の決め手はDNA型鑑定で、刑事の暴力的な調べから自白してしまったという。これは当時の捜査の不手際だと思う。警察官が謝罪しても菅家さんの人生は元に戻らないが、謝ることがせめてもの誠意ではないのか。


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● 「加害者の反省と謝罪」 (芹沢一也 『重罰化は悪いことなのか』より) 

「反省」という観点は、問題を立てるのにふさわしいものだとは思われません。ことに法制度、さらには刑事制度を考える際に、反省という「内面」に関わる振る舞いを持ちだすのは、とても危険だと思います。「反省が十分でない」というロジックは、人間への無限の介入を正当化してしまう恐れがあるからです。国家権力が発動する場面で、そのようなロジックはきわめて危険ではないでしょうか。僕は犯罪被害者の方たちが口にする「反省」や「謝罪」という言葉が、そうした意味でときどき気になります。日本人は一時の感情に流されて、社会にとって大事なものまでも失いがちです。加害者に「反省」を求めるときには、そのような危険な側面があると思います。


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いったい刑事司法制度において、謝罪や反省は欠くことのできない本質的要件なのか。それとも、不要であるどころか有害な要素なのか。その答えは昔から決まっている。すなわち、「謝ってほしい」というときには必要であり、「謝りたくない」というときには不要である。近代憲法下の刑事司法制度は、この区別についても明確に定めており、その原理原則論を無批判に信じるならば、上の2つの文章も矛盾しないものとなる。そもそも刑事裁判の制度は、悪い人を罰するために存在するのではなく、恣意的な権力の発動による市民の自由の剥奪行為を防止し、一般市民が安心して生活を送るために存在する。従って、国家権力の側が冤罪を犯したときには反省して謝罪することが必要であるが、無罪の推定が及ぶ一般市民が罪を犯したときには反省して謝罪する必要がない。話は非常に単純になる。

ところが実際のところ、人間の心理は、「謝ってほしい」と「謝りたくない」の2つで割り切れるほど単純ではない。人間はなぜか、「謝ってほしくない」、あるいは「謝りたい」とも思うものである。「謝ってほしい」と「謝りたくない」が功利主義に基づく損得の価値基準であるとすれば、「謝ってほしくない」と「謝りたい」は内的倫理に基づく善悪の価値基準である。この心理状態を突き詰めていけば、国家権力と一般市民の二分論で片付けられるほど話は単純ではなくなる。人間の謝罪や反省というものが、人生は一度きり、人は必ず死ぬ、時間は戻らない、死者は帰らない、夢は叶わないといった恐るべき真実を知り抜いたときに初めて可能になるとすれば、謝罪できるのは個々の人間のみであって、抽象的な警察権力や検察権力は謝罪などできないからである。人間の実存の深いところから求められ、あるいは求められない謝罪や反省の上にイデオロギーが乗ってしまえば、それは自由ではなく強制となる。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「2・生きがいを感じる心 ― 使命感」より

2009-06-07 19:31:16 | 読書感想文
p.37~

ひとはどういうふうに、あることを自分の使命と感じるようになるのであろうか。性格や生活史のなかから生まれた必然性のようなものから、いわばひとりでに目がある方向へ吸いつけられてしまうこともあろうし、意識的によく考えて選択することもあろう。そこにはまた外側から働く「偶然」との出会いも考えられよう。ナイチンゲール、ジャンヌ・ダーク、シュヴァイツァ、宮沢賢治など、ひとすじに使命感に生きたひとびとは、古今東西、よく知られている。このひとたちの使命感は、生活史や社会的背景から言って一見、必然性が認められないため、少なくとも同時代の身近かなひとびとには多少ともとっぴにみえたろう。

今でこそ全世界から尊敬されているシュヴァイツァであるが、当時とすればこの方向転換は気が狂ったのではないかと思われるだけのことは充分あった。シュヴァイツァの価値基準からいえば、使命と感じられることを遂行することが、他のすべてに優先すべきなのであった。なぜとくにこの仕事でなければならなかったか、と考えてみると、彼の気質や人生観からもいろいろ説明はつけられそうである。また彼自身も白人の黒人に対する道徳的責任ということを持ち出している。しかし説明というものは、いつも事実をあとから追いかけるだけのものである。恐らくシュヴァイツァ自身も、その時はただこのよびかけがまっすぐ自分の心にむかってとびこんでくるのを感じ、全存在でこれをうけとめたのであろう。

社会的にどんなに立派にやっているひとでも、自己に対してあわせる顔のないひとは次第に自己と対面することを避けるようになる。心の日記もつけられなくなる。ひとりで静かにしていることも耐えられなくなる。たとえ心の深いところでうめき声がしても、それに耳をかすのは苦しいから、生活をますます忙しくして、これをきかぬふりをするようになる。もしシュヴァイツァがアフリカ行のために始めた医学修行を達成せず、業半ばで病に倒れたとしたら、すべては無意味であったろうか。一見そうみえても、彼の存在のしかたそのものからいえば、事の本質は少しもちがわなかったはずである。使命感に生きるひとにとっては、自己に忠実な方向に歩いているかどうかが問題なのであって、その目標さえ正しいと信ずる方向に置かれているならば、使命感を果たしえなくても、使命の途上のどこで死んでも本望であろう。


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今現在、世界で最もブログを書いているのは日本人で、日本のブログ総数は約1700万を超えているそうです。私は、神谷氏が述べるところの「心の日記」や、「心の深いところのうめき声」が書かれているようなブログが好きで、従来は読めなかったこのような文章がリアルタイムで読めるようになったことが、ネット社会の最大の僥倖だと思っています。ある文章の異様な迫力というものは、これを書き留めておかなければ生きられない、すなわち今はこの言葉を書き残すことが自分の使命だといった瞬間を経た人によって、現実に生み出されてくるようです。それにしても、人気ブログになるためには写真をふんだんに使い、検索数の多いワードをページに混ぜ込み、有名サイトにトラックバックをする必要があるといった技術論にはウンザリさせられます。

土屋賢二著 『妻と罰』より

2009-06-06 22:30:31 | 読書感想文
p.148~ 「『国』は正体不明だ」より

子どものころ、理解できないことが多かったが、とくに不可解だったのは、「国の所有」「国が没収する」「国を訴える」など、国(市町村、県、会社なども同様)を、あたかも人間であるかのように扱う語り方だった。「国」とか「会社」って何だ? 食べたり遊んだりすることができないものをなぜ人間扱いできるのか理解できなかった。長年の研究の結果分かったことは、依然として理解できないということだった。

国というのは国民1人1人を全部合わせたものだと言われるかもしれないが、たとえば「国が財産を没収した」場合、国民1人1人に「お前が没収したのか」と聞いてまわっても、没収した人は1人もいないことが分かるはずだ。没収する係官はいるが、係官は「国の代理」である。国を訴えると、法廷には「国の代理」を名乗る人間が出てくるが、個人の代理ならともかく、「国の代理」とは何なのか。目に見えず、手でもさわれないものをどうやって代理できるのか。

「国の責任」も意味不明瞭だ。そのためか、だれかが責任をとったためしがない。抽象的なものだから実生活には関係がないと思ってあなどっていると、国は強引かつ確実に税金をとったりするから油断できない。「国」のような訳のわからないものが、容赦なく金を巻き上げるのだ。とうてい理解できたものではない。とくに金をとるところが理解できない。実体のない国のほうが、わたしよりもはるかに存在感があり、強大な力をもっている。わたしのために死ぬ人はいないが、国のために死ぬ人はいるのだ。

しかし、ひるがえって考えてみると、1人1人の人間も実はよく分からないのである。たとえばタンメンを食べるのはわたしであって、わたしを形作っている細胞が食べるわけではない。第一、個々の細胞は、タンメンを食べるには小さすぎる。わたしのその細胞も食べているわけではないのに、わたしは食べているのだ。だとすると、食べたり悩んだりしている「わたし」はいったい何なのか。こう考えると、「わたし」も、国や借金のように実体がないような気がしてくる。しかし、わたしが国と同じなら、なぜ国のような存在感がないのだろうか。


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私は10年以上前から、「笑う哲学者」こと、お茶の水女子大学の土屋賢二教授のエッセイの大ファンです。土屋教授の文章は知る人ぞ知る理屈っぽい独特の作風で、面白い人にはたまらなく面白く、面白くない人には全く面白くないようです。私は、土屋教授の軽妙なタッチが好きだったのですが、なぜか最近、重厚で深い洞察が表れている文章のように思えてきました。昨今のお笑いブームにより、無理に笑わせようと人を貶めたり、不自然に悪乗りする方向が圧倒的になっている影響でしょうか。土屋教授の笑いは刺激が弱く、その笑いのツボは相対的に深くなりすぎたのかも知れません。しかし、悪趣味な大笑いが主流の世相には、土屋教授のような笑いはとても貴重だと思います。いずれにしても、土屋教授の本が売れないことだけは確かです。

修復的司法の問題点 その5

2009-06-04 23:23:09 | 実存・心理・宗教
元受刑者: 「私は犯人でないにもかかわらず、警察と検察の強引な捜査によって有罪判決を受け、無実の罪で17年間も刑務所に服役しました。冤罪は公権力による最大の犯罪です」

カウンセラー: 「それはお気の毒様でした。新たな生活への再スタートが切れるよう、私が立ち直りの援助をさせて頂きます」

元受刑者: 「そんなに簡単に立ち直れないと思います。私は外の世界に出ることもできず、義務のない刑務作業をさせられながら、悔しくて、虚しくて、辛くて、悲しくて、惨めで、哀れでたまりませんでした。この気持ち、わかって頂けますか」

カウンセラー: 「良くわかります。それで、あなたは今でもその気持ちが忘れられないのですか」

元受刑者: 「忘れたくもありません。無実の罪で服役したこの17年間は、もう永久に戻ってこないのです。私の人生を返してもらいたいです」

カウンセラー: 「まだ被害感情が強いようですね。私が心のケアをして、社会生活に戻れるようにしますので、ご安心ください」

元受刑者: 「そんな安心などしたくありません。社会から冤罪をなくすために、市民、マスメディアは何をするべきかを考え、怒りを表明しなければならないと思います」

カウンセラー: 「落ち着いて下さい。感情的になってはいけません。あなたは、自白を強要した警察官や検察官、有罪判決を言い渡した裁判官をまだ赦すことができないのですか」

元受刑者: 「そういう問題ではありません。当時の警察官や検察官には絶対に謝ってほしいと思います。決して許すことはできません。間違ったで済む問題ではありません」

カウンセラー: 「あなたのお怒りはもっともですが、警察官も検察官も人間ですから、当然過ちを犯すでしょう。いつかは赦さなければ先に進めないのではありませんか」

元受刑者: 「いいえ、私は絶対に赦したくなんかありません。私を犯人と決め付け、私に蔑んだような視線を向け、私の全人格を否定した人達を赦せるわけがありません」

カウンセラー: 「本当にそうでしょうか。そのようなことをして、あなたはさらに苦しむのではありませんか。あなたが本当にしたいのは、事件のことは忘れて、元の平和な生活に戻ることなのではありませんか」

元受刑者: 「絶対に違います。私がしたいことは、二度と冤罪を生まないために、この経験を忘れずに語り継ぐことです」

カウンセラー: 「それも大切なことです。しかし、最も大切なことは、憎しみではなく寛容さなのではありませんか。それは、何よりもあなたのためなのです」

元受刑者: 「失礼な方ですね。実際に経験したことのない方に何がわかるのですか。私は、無辜の人間に自白を強要した警察官や検察官に何が何でも謝ってもらいたいのです」

カウンセラー:「 そのようなことをしたら、警察官や検察官の家族や親戚、友人までも不幸にしてしまうのではありませんか。憎しみと不幸の連鎖はどこかで断ち切らなければならないのではありませんか」

元受刑者: 「いい加減にしてください。警察官、検察官、裁判官だけでなく、弁護士、マスコミも含めた社会全体の問題です」

カウンセラー: 「恨みや憎しみの先に何があるのでしょうか。一生かけて恨み続けて、その先に何が待っていると言うのでしょうか。あなたはそれで救われますか。過去にこだわらず、未来志向で行くべきなのではありませんか」

元受刑者: 「話になりません。もういいです」


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真面目に「憎しみの連鎖からの解放」を論じているのに、なぜ間が抜けてしまうのだろうか?

横浜市都筑区 大学生の車にはねられ看護師3人死亡

2009-06-03 23:09:25 | 国家・政治・刑罰
6月1日午後9時35分ごろ、横浜市都筑区の市道交差点で乗用車2台が衝突し、1台が歩道に突っ込み、信号待ちをしていた女性3人をはねた。3人は、いずれも現場近くの昭和大横浜市北部病院看護師であったが、間もなく死亡した。3人は午後5時までの日勤を終え、看護師長の岩山典子さん(49)は院内の医療安全分科会に参加していた。加藤智子さん(43)と生駒ひろみさん(31)は、9月から始まる看護学生の臨床実習のため、指導計画を作っていたという。午後8時ごろに岩山さんも合流して計画をチェックし、3人そろって9時27分に退勤した直後、事故に巻き込まれた。神奈川県警都筑署は同日、自動車運転過失傷害罪の疑いで、車を運転していた川崎市宮前区在住の私立大学1年の少年(18)を現行犯逮捕した。少年は調べに対し、「交差点の手前では信号は黄色で、交差点に入ってから赤になった」と供述しているが、同署は少年が信号を無視して交差点に進入した可能性があるとみて調べている。

このような事故の報道に接した場合、現代社会において合理的・理性的とされている行動は、ただただ絶句して死者の冥福を祈ることではない。マスコミの感情的な報道に流されず、冷静に客観的な真実を知ろうとすることである。そして、運転していた少年や、現場に居合わせた目撃者によって、信号は黄色だったのか赤だったのかが客観的に確定されることになる。このような作業は、その場にいない者にとっては証言しようがないという意味で、必然的に主観的な認識に依存している。この主観的な認識とは、事後的に作られた解釈ではなく、現に自らの全身において体験して発見した真実である。ここにおける真実が、信号は黄色だった、いや赤だったという程度の表面的な問題で終えられるのであれば、人が真実を全身で体験する意味などない。ついさっきまで普通に歩いており、普通に信号待ちをしており、普通に横断歩道を渡って、普通に電車に乗って家族の待つ自宅に帰るはずだった3人が、次の瞬間には命を落としていた。ここまで自らの体験した事実をギリギリまで追い込み、動かぬ事実を見極めていなければ、それは真実の名に値しない。

この事故に関して、感情に流されることなく、客観的な事故原因を科学的に究明するといった手法は、事後的な解釈によって、結果論としてのみ成り立ちうる。事故の悲惨さに目を奪われることは人間の理性的な判断力を鈍らせるものだとして、冷静に客観的な事実認定を突き詰め、人の生命と死に関する張り裂けそうな直観をひたすら押し殺し、抽象的に再構成された過去の事実を一義的に確定しようとすれば、そこから生じるものは単なる共同幻想にすぎない。現に目の前の紛れもない人の死に接して、死から生を逆算して考えを組み立てようとしないのであれば、それは客観的な真実の探究を最初から放棄することだからである。ここにおける最大の客観的な真実とは、夢も希望もない現実、すなわち絶望である。実証的に証拠を集めることが客観的事実の確定につながると信じられている現代において、感情に流されて冷静さを失うことの恐ろしさは誰にでもわかるが、冷静になって感情を失うことの恐ろしさはなかなか気付かれることがない。

2人の看護師は、9月から始まる実習の指導計画を深夜まで作っていたため、その結果として9月まで生きることができなかった。このような動かぬ事実を厳しく見極めてしまうことは、そのように考える者の絶望をさらに絶望で追い込むことであって、なかなか精神的に耐えられるものではない。しかしながら、信号は黄色か赤かといった事実認定に比べてみれば、この絶望は客観性の強固さのレベルが異なる。この客観性とは、現在から過去を振り返って事後的に構成された客観性ではなく、過去の瞬間において体験して発見した真実がそのまま現在になっているような客観性である。自分自身を除いた客観性を信仰するのではなく、ひたすら自分自身の絶句に執着するならば、そのようにして絞り出された言葉は、どこかで動かぬ客観的真実の核心を突いてしまう。いずれ死ぬべき人間が、現にこの世に具体的に生活している限り、これは避けられない人間の存在形式でもある。この地点を経ずして、感情による厳罰推進論の恐怖を指摘したところで、それはより深い恐怖を見落としているに過ぎない。

「返してくれ」以外に何を言えというのか

2009-06-02 23:25:21 | 国家・政治・刑罰
朝日新聞 6/2朝刊 社会面・被害者参加裁判の記事より

前橋地裁では、昨年11月に集団暴行で亡くなった定時制高校生小指直樹さん(当時17)の両親が、傷害致死罪などで起訴された17~18歳の少年の公判に参加している。5月14日の公判は連続開廷の3日目。父親は被告の少年(18)への質問の途中で「直樹を返せ。返してくれよ」と泣き崩れた。「ごめんなさい」と泣く少年への質問は、母親が泣きながら臨んだ。

少年の弁護人は、被害者参加が少年により深い反省を促す有益な面もある一方で、「裁判での規律は守るべきで、『返してくれ』と叫んだりするのは好ましくない。被害者には弁護士が付き添っているのだから、弁護士が代わって質問するなど被告への配慮も必要だ」と指摘する。

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「『返してくれ』と叫ぶのは裁判の規律違反であって好ましくない」といった言葉に囲まれて過ごしていると、人間の深い所から絞り出された叫びが、すべて平板な感情に姿を変えてしまう。規律によって「返してくれ」という叫びが消えるのであれば、誰も苦労はしない。やはり、この種の政治的な規律論を聞き続けていると、人間の何か大事な部分を瞬間的に掴み取る能力が麻痺してしまう。科学的実証主義は、「返してくれ」という問いに対し、大真面目で「実際に返せるか・返せないか」という解答をもって相対する。そして、「実際には返せない」という解答が明らかであるゆえに、この問いは無意味であると結論付けられる。しかしながら、この問いを問う者は、誰もそれが可能だとは思っていない。不可能であるからこそ問わざるを得ない、この逆説を把握しない者にとっては、この種の問いは単なる規律違反の嫌がらせである。そしてこの落差は、逆説を把握する者を一方的に苦しめる。

「何百回、何千回『返してくれ』と繰り返しても、なぜ彼は帰ってこないのか」。この問いの意味を把握しない者にとっては、これは机上の空論の抽象的な苦しみにしか見えない。しかしながら、この問いは不可能を不可能と知りつつ自らの足元に穴を掘る問いである以上、感傷的な甘えは皆無であり、好きで自ら生み出した苦しみに酔っているものではない。この問いは、現に問えば問うほど苦しくなることを知り抜いた上で問うているという意味で、究極の具体的な苦しみである。もちろんこの苦悩は、自分で自分を責めているものではあるが、いわゆる「自虐」という概念とは全く異なる。自虐は情緒的であり、自ら選び取られるものであり、その上で他者からの同情と慰めの言葉を待つものである。これに対して、最愛の人が帰って来ることを望み、それを言葉によって表現する者は、他者からの慰めの言葉が更なる苦しみを生むことを知っている。

犯罪被害者参加制度においては、被害者・遺族側にも弁護士が付き添っており、訴訟の技術的な面については被害者よりも弁護士のほうが適任である。しかしながら、人間の言葉には、本人が言うのでなければ全く意味をなさないものがある。弁護士が被害者遺族に代わって「息子を返してくれ」と言ったところで、そこに言われている「息子」は弁護士の息子ではないという単純な現実において、言葉として意味をなしていない。「息子を返してくれ」という逆説的な要求は、絶望的な運命に囚われた者が、その全人生と全生活を賭けたものでなければ、単に相手方を困らせるだけの嫌がらせになってしまうからである。このような研ぎ澄まされた具体的な言葉に比べれば、「裁判の規律違反」「弁護士が代わって質問」といった言葉は、単に時と場所によって変わる抽象的なルールである。被害者参加制度が実現されなければならなかった最大の動因が、「息子を返してくれ」という言葉にあるとすれば、その言葉を言うことができない裁判にどれだけの意味があるのか。