犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

袰岩奈々著 『感じない子ども こころを扱えない大人』

2009-06-26 23:22:05 | 読書感想文
p.20~
「気持ちを聞く」ということはカウンセリングのプロでも難しい。「どんな気持ちですか」と聞かれて、こんな気持ちなんです」と言葉にできるくらいなら、子どもたちは、もうすでに誰かに話しているだろう。誰も聞かなかったから、気持ちを話していないというのではなく、彼らもどう話せばいいのかわからないのだ。聞く側も、どう聞けばいいのかわからない。

p.31~
感情 ― 特に“ネガティブな気持ち”は、大人であってもなるべく感じたくないものだ。嫌われているかも、と思ったときのなんともいえない感じは、多くの人が「ああ、あの気分ね」と実感できるのではないだろうか。「嫌われているのかも」という不安は、できれば避けたい感情の1つである。だから、一瞬にして、「気にしない、気にしない」という対策や、「自分のどこが悪いかを考える」というように知的に処理して、不愉快な気持ちにとらわれすぎないようにする方法などを、たいがいの大人は編み出している。

p.96~
私たちは、「好きだけど、嫌い」「怖いけれど、面白い」「やりたいけど、やりたくない(しり込みする)」といったように相反する感情を同時に持つことがある。「好き」と言っても、すっきりしない。「嫌い」と言っても、もやもやする。自分のこころのなかで、本当はどう思っているのかがわからなくなってしまうのだ。ましてや、その混乱状態を言葉で表現するのは、さらに難しいことになる。どう表現したらいいかわからないし、説明してもわかってもらえないかもしれない、とあきらめてしまう。あきらめてしまえば、気持ちはますます見えないものになっていく。そんなめんどうなことをするくらいなら、細かい感情は無視しよう。気持ちなんて、ジャマモノ……という状態が生まれてくる。


***************************************************

ネガティブな気持ちは、それが「ネガティブな気持ちである」と言われることによって、ネガティブな気持ちになる。そして、その気持ちは消極的な評価を与えられることによって、深める対象ではなく紛らわせる対象となる。実際のところ、現実の世界が(程度の差はあれ)理不尽であることは、古今東西において変わることがない。誰にとっても理不尽であるならばそのこと自体が理不尽であり、誰かにとっては理不尽でないのならばそれもまた理不尽である。そして、この理不尽さは正確に言葉にすることができない。何がどう理不尽なのかと言えば、理不尽だから理不尽なのであり、それが理路整然と説明できるのならば、最初から理不尽ではない。このような行き止まりに直面して、採り得る1つの方法は、慰めや癒しを求めることである。この方法が持つ問題点は、他人にも慰めや癒しを与え、しかもその他人が慰められて癒されなければ、その正当性が維持できなくなるという点である。

喜びの感情は単純であり、人によってそう変わることはないため、共感することはたやすい。これに比して、苦しみや哀しみの感情は人それぞれであり、共感することは難しい。これは言語の限界である。人が自らの苦しみや哀しみの感情を他者に察してもらうことは救いであるが、それは厳密には感情への共感ではなく、人生とは理不尽さに引き回され続けるものである事実の共通理解でなければならない。ここに慰めや癒しはなく、残酷な現実の共有があるのみである。そうだとすれば、他者の苦しみや哀しみを察するためには、他者の苦しみや哀しみなど察することはできないという逆説を経ていなければならない。「お気持ちお察しします」と心の中で思うことと、それを口に出して他者に伝えることは決定的に異なる。後者において求められていることは、「お気持ちお察しします」という言葉が、他者の慰めや癒しをもたらすという具体的な成果を挙げることである。しかし、それほど簡単に具体的な成果が挙げられるならば、そもそも世界は理不尽ではない。