犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田小学校事件から8年

2009-06-12 23:54:54 | 言語・論理・構造
大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件から、先の6月8日で丸8年が経過した。同校では8日、追悼式典「祈りと誓いの集い」が行われ、遺族や在校生、教員らが出席し、犠牲になった8人の名前が記された「祈りと誓いの塔」を囲んで黙祷した。当時8歳だった娘を亡くした父親は、「娘が生きていれば16歳。16歳になった娘に会い、兄弟を交えて話がしたいです」と語った。また、当時7歳だった娘を亡くした母親は、「娘の名が塔に刻まれていますが、あの新しい校舎の中で歌うことも学ぶこともできないと思うと、とても悲しい」「事件の経験者がいた以前に比べると、今日は泣いている子は一人もいなくて、みんな本当に元気ではつらつとしていた。本来そうあるべきで、この姿を私たちは目指してきたが、それだけ人が入れ替わったということ」「きちんと言葉に出さなければ伝わらないことも、たくさん出てきたと思う」と話した。

何かにつけて、「景気が悪く仕事が忙しいのにお金が儲からないこと」を基準にしなければ話が始まらない昨今の社会において、「命の尊さを確かめて事件の教訓を伝え続けること」は、必然的に宙に浮く。同校校長は「事件を決して風化させることなく、学校安全にかかわる新たな取り組みを継続していく。学校が安全で安心感のある場所であることの大切さを伝え続けていく」と誓いを述べたが、このような誓いも必然的に矛盾を含んでしまう。生徒代表の答辞に述べられていたような「優しさがあふれ、笑顔の絶えない素晴らしい学校」になるためには、事件の瞬間の記憶などは有害である。また、すでに死刑が執行された宅間守被告の裁判を振り返ってみても、事件の教訓など何も得ることはできなかった。そのような中で、事件の記憶など全くない生徒は、当然ながら元気ではつらつとしていて、意味も良くわからないまま式典に出席させられ、実際に笑顔の絶えない学校が戻ってしまっている。それだけに、「きちんと言葉に出さなければ伝わらないこともたくさん出てきた」という言葉には切実感がある。

二度とこのような悲しい事件を起きないようにするとの決意から、8人の犠牲者の名が刻まれた塔を立て、8つの鐘を鳴らす儀式を行うこと、これはもちろん純粋な善意の結晶である。それだけに、観念は純粋化され、人間の心の中の微妙な違和感は見えにくくなる。この違和感とは、「校庭に笑顔が戻る」ことを目的とし、実際に校庭に笑顔が戻ってしまったならば、二度と校庭に笑顔で戻れない死者の存在が忘れ去られるという残酷な構造に気付く力である。悲しい事件に巻き込まれた人はもちろん、他の人にはこのような思いをしてほしくないと願うものであり、他の人にも同じ悲しみを味わわせたいとの願いは大っぴらに言えるものではない。ところが、実際に他の人が事件を忘れて平穏無事な生活を謳歌し始めたならば、事件の日で時間が止まっている人だけが取り残されることになる。そして、事件を語り継ぎ、事件を決して忘れない日は、今や1年間でたった1日だけになっている。「きちんと言葉に出さなければ伝わらないこと」とは、恐らくそのようなことである。

当時6歳だった息子を奪われた母親は、「傷を一生背負っていかなくてはならない。時が経過し、触れただけで痛むような傷ではなくなったが、心の奥深く静かに沈む悲しみになったのかもしれない」と語った。これは、心ならずも8年間かけて熟成されてしまった言葉が、これ以外にないという次元まで抽象的に具体化されて、経験のない他者に伝えうる力を持つようになったという種類の言葉である。ところが、あるニュースは、これに『「心の傷深い」と池田小事件遺族 今も悲しみ背負う』とのタイトルを付け、言葉を完全に殺してしまった。これは、文字数の制限という報道の形式に伴う言葉の変質である。「心の傷が深い」という表現はよく聞かれるが、この乱発に慣れることの恐ろしさとは、出来合いのマニュアル言語を形式的に使用することが一種の儀式になってしまうことである。「触れただけで痛むような傷ではなくなった」、それにもかかわらず「心の奥深く静かに沈む悲しみになった」という論理の流れを見てみれば、そこに言われていることは、「心の傷が深い」とは全く逆のことである。


「心の傷深い」と池田小事件遺族 今も悲しみ背負う(共同通信) - goo ニュース