犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

土屋賢二著 『妻と罰』より

2009-06-06 22:30:31 | 読書感想文
p.148~ 「『国』は正体不明だ」より

子どものころ、理解できないことが多かったが、とくに不可解だったのは、「国の所有」「国が没収する」「国を訴える」など、国(市町村、県、会社なども同様)を、あたかも人間であるかのように扱う語り方だった。「国」とか「会社」って何だ? 食べたり遊んだりすることができないものをなぜ人間扱いできるのか理解できなかった。長年の研究の結果分かったことは、依然として理解できないということだった。

国というのは国民1人1人を全部合わせたものだと言われるかもしれないが、たとえば「国が財産を没収した」場合、国民1人1人に「お前が没収したのか」と聞いてまわっても、没収した人は1人もいないことが分かるはずだ。没収する係官はいるが、係官は「国の代理」である。国を訴えると、法廷には「国の代理」を名乗る人間が出てくるが、個人の代理ならともかく、「国の代理」とは何なのか。目に見えず、手でもさわれないものをどうやって代理できるのか。

「国の責任」も意味不明瞭だ。そのためか、だれかが責任をとったためしがない。抽象的なものだから実生活には関係がないと思ってあなどっていると、国は強引かつ確実に税金をとったりするから油断できない。「国」のような訳のわからないものが、容赦なく金を巻き上げるのだ。とうてい理解できたものではない。とくに金をとるところが理解できない。実体のない国のほうが、わたしよりもはるかに存在感があり、強大な力をもっている。わたしのために死ぬ人はいないが、国のために死ぬ人はいるのだ。

しかし、ひるがえって考えてみると、1人1人の人間も実はよく分からないのである。たとえばタンメンを食べるのはわたしであって、わたしを形作っている細胞が食べるわけではない。第一、個々の細胞は、タンメンを食べるには小さすぎる。わたしのその細胞も食べているわけではないのに、わたしは食べているのだ。だとすると、食べたり悩んだりしている「わたし」はいったい何なのか。こう考えると、「わたし」も、国や借金のように実体がないような気がしてくる。しかし、わたしが国と同じなら、なぜ国のような存在感がないのだろうか。


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私は10年以上前から、「笑う哲学者」こと、お茶の水女子大学の土屋賢二教授のエッセイの大ファンです。土屋教授の文章は知る人ぞ知る理屈っぽい独特の作風で、面白い人にはたまらなく面白く、面白くない人には全く面白くないようです。私は、土屋教授の軽妙なタッチが好きだったのですが、なぜか最近、重厚で深い洞察が表れている文章のように思えてきました。昨今のお笑いブームにより、無理に笑わせようと人を貶めたり、不自然に悪乗りする方向が圧倒的になっている影響でしょうか。土屋教授の笑いは刺激が弱く、その笑いのツボは相対的に深くなりすぎたのかも知れません。しかし、悪趣味な大笑いが主流の世相には、土屋教授のような笑いはとても貴重だと思います。いずれにしても、土屋教授の本が売れないことだけは確かです。