犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

堀井憲一郎著 『落語の国からのぞいてみれば』より

2009-06-15 00:03:03 | 読書感想文
p.91~

昔の旅は歩くばかりだから大変だったし、またその半面、のんびりしたものだった。近代からとらえた江戸の昔の旅は、そういうイメージになっている。でもこれは、ちょっとちがう。江戸に生きた人間として言わせてもらうと、誤解されている。歩くしかない時代には、歩く旅のことを、大変だとも、のんびりしてるとも、おもっていない。おもえないです。あたりまえだけどね。だって、歩くしかないんだもん。

たとえばいま21世紀初頭、東京の日本橋から京都三条へ行くとする。とりあえず日本橋から近距離ながらタクシーに乗って東京駅八重洲口へ。新幹線のぞみに乗り、2時間少々で京都駅へ。地下鉄烏丸線で烏丸御池駅まで出て、烏丸三条から三条大橋まではバスに乗りましょう。そんなもんでしょう。

ただこれを35世紀から来た未来人に話したとして、「あら。どうしてソゴンドブを使わないんですか」と言われてもどうしようもない。ソゴンドブ。いや、おれも知らないけどね。21世紀の人間だし。35世紀の移動方法は想像つかないです。でも35世紀の人間はソゴンドブで移動するのが当たり前になっていて、ソゴンドブって何かわからないけど、でもソゴンドブだと日本橋から三条まで45分で着くらしい。

35世紀人に「ソゴンドブで移動しないとは、ずいぶん大変ですよねえ」と言われても、「ソゴンドブを使わないなんて、ずいぶんのんびり優雅な旅をなさるんですねえ」と言われても、おれはどうしようもない。そういうことです。


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数年前の江戸ブームにしても、昭和30年代ブームにしても、最近の歴史ブームにしても、今現在に絶対的な軸足を置いている限り、それは後世の人間が勝手に作った虚構から抜けることができない。それは、一方的な願望を投影したものであり、安易な癒しを求めるものに過ぎない。いかなる時代もその時代には現代であり、歴史上に歴史上の人物などは存在しないか、もしくはすべてが歴史上の人物である。この時代性が見落とされた人物は、すべて架空のアニメのキャラクターと同じである。この21世紀の現代社会も、遠い未来から見てみれば過去の歴史の一部分に過ぎないことに気付けば、呑気に「昔は良かった」などとは言っていられない。

過去の歴史の経験から学ぶとなると、例によって歴史の真実はどうだとか、何がどう歪曲されているといった争いが生じがちになる。しかしながら、すべての過去は現在から見た過去であると開き直ってしまえば、このようなことで争う必要もない。歴史とは、現代と異なる論理を持つ時代への興味だとするならば、そもそも現代の論理で歪曲の有無を論じても始まらないからである。このような単純な事実を見失わないために必要なものは、「笑い」である。この笑いは、権力者を風刺するとか、その種のシニカルな笑いではなく、もっと底が抜けてしまった爆笑のことである。そして、この笑いの象徴が、堀井氏の述べる「ソゴンドブ」である。本当に35世紀に「ソゴンドブ」が発明されているのか、このような問題意識を持ってしまえば、これは面白くも何ともない。