犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

今村仁司著 『貨幣とは何だろうか』

2009-06-14 23:01:35 | 読書感想文
p.23~
近代という時代では、人は経済からも政治からも死の観念を追放する。かつて人間の歴史的世界には死の観念が充満していたし、その意味で歴史は宗教的であったが、近代では死の観念は経済や政治から分離されて制度としての宗教に委ねられる。

P.25~
貨幣が価値であることそのことは死の観念の受肉過程から生成するのだが、現実に機能する貨幣からは一切消え去っているから、貨幣と死の関係に気づくことは稀である。だから貨幣の経済学的考察のなかに死の観念とか、貨幣と死の関係が問題としてまったく登場しないとしても、ある意味では当然である。その限りでの妥当性を経済学的見方はもっているが、それ以上ではない。だからこそ貨幣の社会哲学的考察が必要になる。

p.92~
貨幣は経済生活では人間関係を円滑に媒介することが多い。だからといって、貨幣をあらゆることに関して媒介者として使うとなると、問題が生じてくる。シャルロッテは、墓の問題にまで貨幣を介入させる。墓は死者と生者の媒介形式である。貨幣は経済的人間関係の媒介形式である。ふたつとも同じ媒介形式であるが、活動の場を異にする。一方を他方で代替することはできない。これをとりちがえると恐ろしいことが出現する。

p.122~
貨幣や資本の問題は、けっして経済だけの問題ではなくて、それらの本性を文学的に認識するようにゲーテが促されたほどに、広く人間の根源に関わる問題であった。とくに19世紀の後半から貨幣や資本の問題が経済学者の独占物になる傾向がますます強くなるのは、まことに不幸なことだ。経済学は貨幣や資本を経済現象の範囲内でしかあつかわないし、しばしばそれらの素材的側面だけをあつかうようになる。


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資本主義の下での民事裁判には、どうしても解決できないジレンマがある。それは、お金を払ってもらうことが目的ではなくても、損害賠償請求という形を採らざるを得ないということである。お金が欲しいのではなく命を返してほしい、筋を通してほしい、間違いは間違いだと認めてほしい。しかしながら、どうしても裁判ではお金を払わせることが目的となるため、「本当はお金が目的なんだろう」「お金が欲しくないなら何で裁判しているんだ」という的外れの批判を許容してしまう。また、「どんなに多額でも誠意がこもっていないお金など受け取れない」「誠意がこもっているお金ならば少額でも受け取る」という正論は、お金を払う側に利益をもたらすという虚しい結果となる。

死者の命をお金で買えるというのか。死者の平均寿命までの逸失利益を賃金センサスから計算して、それで人は納得するのか。この問いに対する解答として、今村氏が述べるように貨幣のほうを死の観念から導くことは、1つの救いではある。貨幣は経済的にのみ捉えられる媒介物ではなく、社会哲学的に捉えてみれば、人間の根源に直接かかわっている。いかなる思想も、それが思考されている瞬間を過ぎて体系化されれば、それは思想の残骸である。同じように、いかなる物体も、それに価値が付与された瞬間を過ぎて貨幣と交換される状況に至れば、それは価値の残骸である。元々貨幣が死の観念を表象しているのであれば、命の穴埋めとして多額の賠償金を得ても報われないのは、あまりに当たり前のことである。