犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「2・生きがいを感じる心 ― 使命感」より

2009-06-07 19:31:16 | 読書感想文
p.37~

ひとはどういうふうに、あることを自分の使命と感じるようになるのであろうか。性格や生活史のなかから生まれた必然性のようなものから、いわばひとりでに目がある方向へ吸いつけられてしまうこともあろうし、意識的によく考えて選択することもあろう。そこにはまた外側から働く「偶然」との出会いも考えられよう。ナイチンゲール、ジャンヌ・ダーク、シュヴァイツァ、宮沢賢治など、ひとすじに使命感に生きたひとびとは、古今東西、よく知られている。このひとたちの使命感は、生活史や社会的背景から言って一見、必然性が認められないため、少なくとも同時代の身近かなひとびとには多少ともとっぴにみえたろう。

今でこそ全世界から尊敬されているシュヴァイツァであるが、当時とすればこの方向転換は気が狂ったのではないかと思われるだけのことは充分あった。シュヴァイツァの価値基準からいえば、使命と感じられることを遂行することが、他のすべてに優先すべきなのであった。なぜとくにこの仕事でなければならなかったか、と考えてみると、彼の気質や人生観からもいろいろ説明はつけられそうである。また彼自身も白人の黒人に対する道徳的責任ということを持ち出している。しかし説明というものは、いつも事実をあとから追いかけるだけのものである。恐らくシュヴァイツァ自身も、その時はただこのよびかけがまっすぐ自分の心にむかってとびこんでくるのを感じ、全存在でこれをうけとめたのであろう。

社会的にどんなに立派にやっているひとでも、自己に対してあわせる顔のないひとは次第に自己と対面することを避けるようになる。心の日記もつけられなくなる。ひとりで静かにしていることも耐えられなくなる。たとえ心の深いところでうめき声がしても、それに耳をかすのは苦しいから、生活をますます忙しくして、これをきかぬふりをするようになる。もしシュヴァイツァがアフリカ行のために始めた医学修行を達成せず、業半ばで病に倒れたとしたら、すべては無意味であったろうか。一見そうみえても、彼の存在のしかたそのものからいえば、事の本質は少しもちがわなかったはずである。使命感に生きるひとにとっては、自己に忠実な方向に歩いているかどうかが問題なのであって、その目標さえ正しいと信ずる方向に置かれているならば、使命感を果たしえなくても、使命の途上のどこで死んでも本望であろう。


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今現在、世界で最もブログを書いているのは日本人で、日本のブログ総数は約1700万を超えているそうです。私は、神谷氏が述べるところの「心の日記」や、「心の深いところのうめき声」が書かれているようなブログが好きで、従来は読めなかったこのような文章がリアルタイムで読めるようになったことが、ネット社会の最大の僥倖だと思っています。ある文章の異様な迫力というものは、これを書き留めておかなければ生きられない、すなわち今はこの言葉を書き残すことが自分の使命だといった瞬間を経た人によって、現実に生み出されてくるようです。それにしても、人気ブログになるためには写真をふんだんに使い、検索数の多いワードをページに混ぜ込み、有名サイトにトラックバックをする必要があるといった技術論にはウンザリさせられます。