犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

横浜市都筑区 大学生の車にはねられ看護師3人死亡

2009-06-03 23:09:25 | 国家・政治・刑罰
6月1日午後9時35分ごろ、横浜市都筑区の市道交差点で乗用車2台が衝突し、1台が歩道に突っ込み、信号待ちをしていた女性3人をはねた。3人は、いずれも現場近くの昭和大横浜市北部病院看護師であったが、間もなく死亡した。3人は午後5時までの日勤を終え、看護師長の岩山典子さん(49)は院内の医療安全分科会に参加していた。加藤智子さん(43)と生駒ひろみさん(31)は、9月から始まる看護学生の臨床実習のため、指導計画を作っていたという。午後8時ごろに岩山さんも合流して計画をチェックし、3人そろって9時27分に退勤した直後、事故に巻き込まれた。神奈川県警都筑署は同日、自動車運転過失傷害罪の疑いで、車を運転していた川崎市宮前区在住の私立大学1年の少年(18)を現行犯逮捕した。少年は調べに対し、「交差点の手前では信号は黄色で、交差点に入ってから赤になった」と供述しているが、同署は少年が信号を無視して交差点に進入した可能性があるとみて調べている。

このような事故の報道に接した場合、現代社会において合理的・理性的とされている行動は、ただただ絶句して死者の冥福を祈ることではない。マスコミの感情的な報道に流されず、冷静に客観的な真実を知ろうとすることである。そして、運転していた少年や、現場に居合わせた目撃者によって、信号は黄色だったのか赤だったのかが客観的に確定されることになる。このような作業は、その場にいない者にとっては証言しようがないという意味で、必然的に主観的な認識に依存している。この主観的な認識とは、事後的に作られた解釈ではなく、現に自らの全身において体験して発見した真実である。ここにおける真実が、信号は黄色だった、いや赤だったという程度の表面的な問題で終えられるのであれば、人が真実を全身で体験する意味などない。ついさっきまで普通に歩いており、普通に信号待ちをしており、普通に横断歩道を渡って、普通に電車に乗って家族の待つ自宅に帰るはずだった3人が、次の瞬間には命を落としていた。ここまで自らの体験した事実をギリギリまで追い込み、動かぬ事実を見極めていなければ、それは真実の名に値しない。

この事故に関して、感情に流されることなく、客観的な事故原因を科学的に究明するといった手法は、事後的な解釈によって、結果論としてのみ成り立ちうる。事故の悲惨さに目を奪われることは人間の理性的な判断力を鈍らせるものだとして、冷静に客観的な事実認定を突き詰め、人の生命と死に関する張り裂けそうな直観をひたすら押し殺し、抽象的に再構成された過去の事実を一義的に確定しようとすれば、そこから生じるものは単なる共同幻想にすぎない。現に目の前の紛れもない人の死に接して、死から生を逆算して考えを組み立てようとしないのであれば、それは客観的な真実の探究を最初から放棄することだからである。ここにおける最大の客観的な真実とは、夢も希望もない現実、すなわち絶望である。実証的に証拠を集めることが客観的事実の確定につながると信じられている現代において、感情に流されて冷静さを失うことの恐ろしさは誰にでもわかるが、冷静になって感情を失うことの恐ろしさはなかなか気付かれることがない。

2人の看護師は、9月から始まる実習の指導計画を深夜まで作っていたため、その結果として9月まで生きることができなかった。このような動かぬ事実を厳しく見極めてしまうことは、そのように考える者の絶望をさらに絶望で追い込むことであって、なかなか精神的に耐えられるものではない。しかしながら、信号は黄色か赤かといった事実認定に比べてみれば、この絶望は客観性の強固さのレベルが異なる。この客観性とは、現在から過去を振り返って事後的に構成された客観性ではなく、過去の瞬間において体験して発見した真実がそのまま現在になっているような客観性である。自分自身を除いた客観性を信仰するのではなく、ひたすら自分自身の絶句に執着するならば、そのようにして絞り出された言葉は、どこかで動かぬ客観的真実の核心を突いてしまう。いずれ死ぬべき人間が、現にこの世に具体的に生活している限り、これは避けられない人間の存在形式でもある。この地点を経ずして、感情による厳罰推進論の恐怖を指摘したところで、それはより深い恐怖を見落としているに過ぎない。