犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

謝罪と反省

2009-06-09 23:42:21 | 実存・心理・宗教
● 「謝ることが、せめてもの誠意」 (足利事件に関して 朝日新聞の読者投稿欄)

記者会見で菅家利和さんは「自分の人生を返してほしい。間違ったではすまないんです」と訴えた。そして、「警察官や検察官を許すことはできない。謝ってほしい」と繰り返したという。怒りはもっともである。警察官や司法関係者は菅家さんの前で頭を下げてほしい。犯人特定の決め手はDNA型鑑定で、刑事の暴力的な調べから自白してしまったという。これは当時の捜査の不手際だと思う。警察官が謝罪しても菅家さんの人生は元に戻らないが、謝ることがせめてもの誠意ではないのか。


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● 「加害者の反省と謝罪」 (芹沢一也 『重罰化は悪いことなのか』より) 

「反省」という観点は、問題を立てるのにふさわしいものだとは思われません。ことに法制度、さらには刑事制度を考える際に、反省という「内面」に関わる振る舞いを持ちだすのは、とても危険だと思います。「反省が十分でない」というロジックは、人間への無限の介入を正当化してしまう恐れがあるからです。国家権力が発動する場面で、そのようなロジックはきわめて危険ではないでしょうか。僕は犯罪被害者の方たちが口にする「反省」や「謝罪」という言葉が、そうした意味でときどき気になります。日本人は一時の感情に流されて、社会にとって大事なものまでも失いがちです。加害者に「反省」を求めるときには、そのような危険な側面があると思います。


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いったい刑事司法制度において、謝罪や反省は欠くことのできない本質的要件なのか。それとも、不要であるどころか有害な要素なのか。その答えは昔から決まっている。すなわち、「謝ってほしい」というときには必要であり、「謝りたくない」というときには不要である。近代憲法下の刑事司法制度は、この区別についても明確に定めており、その原理原則論を無批判に信じるならば、上の2つの文章も矛盾しないものとなる。そもそも刑事裁判の制度は、悪い人を罰するために存在するのではなく、恣意的な権力の発動による市民の自由の剥奪行為を防止し、一般市民が安心して生活を送るために存在する。従って、国家権力の側が冤罪を犯したときには反省して謝罪することが必要であるが、無罪の推定が及ぶ一般市民が罪を犯したときには反省して謝罪する必要がない。話は非常に単純になる。

ところが実際のところ、人間の心理は、「謝ってほしい」と「謝りたくない」の2つで割り切れるほど単純ではない。人間はなぜか、「謝ってほしくない」、あるいは「謝りたい」とも思うものである。「謝ってほしい」と「謝りたくない」が功利主義に基づく損得の価値基準であるとすれば、「謝ってほしくない」と「謝りたい」は内的倫理に基づく善悪の価値基準である。この心理状態を突き詰めていけば、国家権力と一般市民の二分論で片付けられるほど話は単純ではなくなる。人間の謝罪や反省というものが、人生は一度きり、人は必ず死ぬ、時間は戻らない、死者は帰らない、夢は叶わないといった恐るべき真実を知り抜いたときに初めて可能になるとすれば、謝罪できるのは個々の人間のみであって、抽象的な警察権力や検察権力は謝罪などできないからである。人間の実存の深いところから求められ、あるいは求められない謝罪や反省の上にイデオロギーが乗ってしまえば、それは自由ではなく強制となる。