犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「2・生きがいを感じる心 ― 感情としての生きがい感」より

2009-04-16 22:00:54 | 読書感想文
p.22~

ルナールの生活のなかで、多くの困苦に耐え、多くのひとの非難に抵抗しうる勇気と忍耐の原動力となったのは、あきらかに烈しい生きがい感であった。ここには或ることをなすべくうまれついたひとが、その精神的資質の最も本質的な方向へと、否応なしにひきずられて行く姿がある。それが何に役立つかということはここでは問題ではない。彼はそのようにしか生きえないのであって、べつの生きかたをえらべば、たとえ社会的にもっと恵まれたとしても、人間としてはちっ息してしまったであろう。忍耐力も勇気も消えうせてしまったであろう。

p.29~

生きがい感が幸福感とちがうところは、生きがい感のほうが自我の中心にせまっている、という点である。幸福感には自我の一部だけ、それも末梢的なところだけで感ずるものもたくさんある。たとえば多くの男のひとにとって家庭生活の幸福は、それだけで全面的な生きがい感をうむものではなかろう。ところがどんなに苦労の多い仕事でも、これは自分でなければできない仕事である、と感ずるだけでも生きがいをおぼえることが多い。これはその仕事をすることによって、そのひとの自我の中心にあるいくつかの欲求がみたされるからである。したがってひとが仕事を選ぶ場合にも、もし生きがい感を大切にするならば、世間体や収入よりもなるべく自分でなくてはできない仕事をえらぶのがよいということになる。


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現代の日本は、幸福になりたい人と幸福になれない人であふれている。雑誌の見出しは、不幸になるのが恐ろしい人間の深層心理を突き、不安を煽り、幸福への強迫観念を醸成するのに一役買っている。ここにおける幸福とは、神谷氏が述べているとおり、多くの場合には世間体や収入である。そして、自我の一部の末梢的なところだけで感ずるものであり、なおかつ自我の中心に迫っていないものである。人生は転んでもやり直せる、あきらめないことが大切である、いつか夢は叶うといったありきたりのプラス思考は、あくまでも他者からの評価を前提にした虚栄心に基づいている。自我の中心に迫った生きがい感は、明日は我が身に何が起こるかわからないという事実を事実として端的に捉えるのみであり、それゆえに「人生を悔いのないように生きたい」といった手頃な解釈に安住することを拒む。

現代の日本は、他方で、生きがい感を大切にして仕事を選んでいられるような状況ではない。とりあえず内定をもらえる会社、内定を取り消されない会社、しっかりと給料を払ってくれる会社、倒産しない会社に就職するしかなく、それも少しでも収入が多い会社に正社員として採用されなければならない。今や神谷氏のような理想論を言っている時代ではなく、神谷氏の本はあくまで日本の高度成長期に書かれものだというならば、それは実際その通りである。これは、問題のレベルが格段に下がったということである。そうは言っても、人々はこの雇用不安の時代で生きるしかなく、ハローワークで生きがい感を大切にしていては食えずに死ぬというならば、それも実際その通りである。自我の一部の幸福感を問題の中心に置き、それを生きがい感と混同し、すべてを経済的な問題に解消しているこの時代が、年間3万人以上の自殺者を生んでいるとはいかなることか。