犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山折哲雄著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅲ「臓器移植は仏教の精神に反する」より

2009-04-25 23:09:35 | 読書感想文
p.149~
今日、私がこうして生きのびることができたのは、ひとえに現代医学のおかげである。その恩恵を蒙らなかったら、私はとうの昔に死んでいる。数多くの医師たちによって命を助けられてきたのだ。その恩を忘れるわけにはいかない。しかし、脳死・臓器移植のことが世間で話題になったときばかりは、違った。そのとき私は、現代医学によって生命を助けられたことを一瞬亡失した。私が最初に反応したのは、生理的嫌悪だった。それは理屈を超えていた。人間のいちばん大切なところに毛むくじゃらの手がのびてくるようなイメージだった。脳死という名の観念遊戯が臓器移植の技術と並んで語られるようになったとき、その毛むくじゃらの手の正体を突然眼前につきつけられたような気分になった。

死の作法が、それによってとどめを刺されるだろうと直覚したからだ。世代をこえて継承されてきた死の作法という、それこそ人間の「尊厳」にとってもっとも欠かすことのできない伝統が、しだいに空中分解をとげていくだろうと思わないわけにはいかなかったからだ。たとえば、脳死判定などという法的・医学的手続きがある。その手続きが厳密に行われているとき、家族はどこで、なにをしているのか。なにができるのか。どのような時間を過ごし、どのような場所で死にゆく者を看取るのか。そういう重大な問題がまったく等閑にふされている。それがまるっきり闇に包まれている。それにかわって聞こえてくるのは、遺族(家族)のプライバシーとか、それを報道する側のパブリシティとかいう耳ざわりな言葉ばかりである。それらの軽薄な言葉は、死にゆく者、死者を看取る者の心中に土足で踏み入る舌足らずな観念語にしか、私には見えない。

p.152~
今日の脳死・臓器移植の現場で死の作法を再現しようとすると、いったいどういう光景が見えてくるだろうか。せいぜい、ドナーカードなるものに臓器提供の意思を書き入れるときがポイントになるくらいだろう。しかしそんな行為が果たして死の作法なのか。善意と言う美名のもと、たんにマークシート方式によってマルバツの印をつけるだけではないのか。自分の死後の遺体の後始末を、火葬にするか土葬にするか、散骨にするか献体にするかを指示するのと、いったいどれほどの違いがあるというのだろうか。財産分与の遺言が死の作法とは何の関係もないように、ドナーカード式の遺言も、また死の作法の原点からは無限にかけ離れているとしか言いようがない。


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「あなたは臓器移植法の改正に賛成ですか? 反対ですか?」

「そういう質問に反対です」

「真面目に答えて下さい!」

「はい、はい。賛成派と反対派がお互いの主張に謙虚に耳を傾け合い、相互の立場を尊重し合い、生産的な議論を重ねるべきだと思います。これでいいですか?」

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