犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

和歌山毒物カレー事件 林真須美被告の上告棄却

2009-04-22 21:43:38 | 言語・論理・構造
「林真須美被告は間違いなくやっている。しかし、この程度の弱い状況証拠で死刑を言い渡すことには問題があり、無罪にすべきであった」。この矛盾した結論の存在を誤魔化し続けている限り、どのような評論も空しい。過去の動かぬ客観的事実を認定するためだけに行われた数々の人間の行為が、その究極の目的に届かないまま、そのこと自体を認めないために必死になっている姿である。特に、裁判員制度と結びつけた賛否両論など、事件が起きた10年前には裁判員制度の影も形もなかったことを考えれば、この事件を論じているつもりで全く別の話を論じているに過ぎない。それは、殺人を語らず、死刑を語らず、従って人の死を語らない。「誰も犯行の瞬間を見ていないのであれば誰が犯人かわからない」というのであれば、単に「誰かが見ていればその人が犯人であるとわかる」というだけの話である。また、「本人が犯行を否認しているのであるから実際にはやっている」というのであれば、単に「本人が犯行を自白しているのであるから実際にはやっていない」というだけの話である。

裁判において証拠を積み上げて過去に起きた事実を客観的に解明する、さらには犯人の主観的な動機を解明する、この可能性を信じることは極めて安易な方法である。否認を続ける被告人は、そもそも犯行動機を語ることはないが、自白する被告人ですら裁判で犯行動機を明らかにすることは難しい。それは、被告人が取調官に嘘をついているという側面と、被告人自身も自分の気持ちがわからないという側面がある。この世の中において、人は他人の内心に入ることが絶対にできないという現実が動かないのであれば、これを裁判によって動かすことなど不可能である。日常生活の中でできないことが、人為的に区切られた特殊な空間である裁判の場でできるはずがない。そのことがわかっていて10年も裁判をしてきたのであれば、今さら専門家・評論家が何をもっともらしく評論しても空しい道理である。客観的な世界観を認定する方法論が細かく発達すればするほど、実際の問題は全く処理できずに右往左往し、例によって「課題は山積みである」「真剣に考えて行かなければならない」と言って誤魔化すしかなくなる。

この事件で亡くなった鳥居幸さん(当時16歳)の母・百合江さんは、昨日の記者会見で、「今でも聞きたいです。何でそういうことをしたのか。それがなくて、何で娘が死ぬのか。そんな動機もなくて、あの子が亡くなったのは、とても受け入れることができません。区切りも何もありません。一生背負い続けることだと思います」と述べた。証拠による客観的な事実認定の思考方法に慣れた者において、この言葉の意味を理解するのは容易なことではない。専門用語ではない日常言語というものは、容易には語り得ぬ人々の経験において語り得ぬものを語ろうとし、語れないという事実に直面し、それにもかかわらず語ろうとする中から語られてきたものである。もしも歴史の経験から学ぶという行為形式があるとすれば、それは第一に、このような言葉そのものの存在によって学ばれるべきものである。耐えがたい苦痛に直面した者は、その経験に基づいて専門用語を発明することはない。このような記者会見の言葉の迫力を恐れつつ、次の瞬間には「被害感情」という用語に押し込めて、再び客観的な事実認定の思考方法に戻るならば、そのような理論は現実に足を着けていない。机上の空論でない真実の思想を捉えようとするならば、その倫理的直観は、被告人の言葉を無視してでも被害者遺族の言葉を聞こうとするはずである。

林真須美被告たった1人の刑罰をめぐって、10年間の長きにわたり、多くの司法関係者が証言に向き合い、証拠物件に向き合ってきた。他方で、10年間にわたり、遺された者は死者の不在と向き合ってきた。客観的な事実認定の思考方法は、過去のある一点における特定の事実の有無を人為的に問題にする。これに対して、遺された者は、「最愛の人は昨日もいなかった」「今日もいない」「明日もいないだろう」という目の前の逃れられない現実を毎日毎日問題にさせられる。証拠による合理的な事実認定、誤判の恐れの排除といった理念は、万人の望む普遍的な要請である。しかし、このような人為的な観念は、語り得ぬものを目の前にして沈黙する過程を経ていない以上、人々はそこから大いに語り始め、賛否両論の論戦を始めて収拾がつかなくなる。このようにして作られたシステムが近代刑法における刑事裁判であり、それは神の目による真実の確定ではなく単に公訴事実(訴因)の有無を決めるだけのゲームであり、林被告の弁護団もそれに従って戦略を立てていたのであれば、結論は自ずと見えてくる。裁判員が「白か黒かわからない灰色だが、無罪判決を出した時の遺族の心中が想像するに張り裂けそうで忍びない」との理由で死刑を選択したとしても、単なる法廷ゲームであれば一向に構わない道理である。

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2 コメント

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Unknown (ayaka)
2009-04-25 20:58:29
私には良くわかりませんが、研究職についている
知人が、物証のために警察の用いた器具?とその
物証が、いかに確かなものあるかを長く語っていました。
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ありがとうございます。 (某Y.ike)
2009-04-26 01:55:23
ある判決の結論について、賛成反対の二分論で議論しても何もならないことがよくわかりますね。その研究職の方と、法律の専門家が議論しても、平行線にすらならないと思われます。
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