犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『勝っても負けても 41歳からの哲学』より

2009-04-30 20:39:24 | 読書感想文
週刊新潮・平成17年5月26日号 「その日あなたは何を食べた」より(p.165~)

いつものことながら、マスコミは大事故が大好きである。報道するのに張り合いが出るからであろう。とくに、今回の脱線事故の場合は、悪者となる者がはっきりしている。JR西日本である。こいつを責めている限り、自分たちは正義のような気がしていられる。事故の当日ボウリングをしていた、宴会をしていた、黙祷したあとビールを飲んだ、と見つけ出しては盛り上がっている。そうやって、盛り上がって、酒を飲んだのはあんた方も同じでしょうが。やあ今日は特ダネがとれたと、あんた方も酒を飲んだでしょうが。他人の不幸を酒肴にする、いやそれを生活の糧にしているという点では、JRよりもタチが悪い。

観る側だって、同じである。JRは怪しからんと責めるなら、なんで事故の映像などテレビで観ているものだろう。こんな映像が手に入りました、なんて映像を観る必要がなんである。自分の家族がそこで死んでいるというなら別である。しかし、大方の人はそうではない。無関係の他人である。他人の不幸は面白い。それで正義の気分が味わえるなら、なおである。もちつもたれつ両者の関係である。現代社会では当たり前のこのメディアという存在は、今さらながら、人間の品性を卑しくするものである。いや正確には、人間品性のそういう部分を、メディアが引き出して助長するのだと言うべきか。

何を間違えたのか、私のところへ、新聞社から電話がきた。事故の取材に駆けつけたという、若い女性記者である。「同僚の記者が、JR社員が当日ちゃんこ鍋を食べていたという事実を見つけて、鬼の首をとったみたいに喜んでいます。どこまで追及すればいいんでしょうか」。ああ、それはちゃんこ鍋だったからまずかったのかもしれない。大勢の人が死んでいる時に、ごはんを食べるということは、たいそう不謹慎なことですからね。ところで、その日あなたは何を食べた。こう追及されるなら、日本中のすべての人が同罪である。白状します。ごめんなさい、私も酒を飲んでいました。


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107人が亡くなったJR福知山線の脱線事故から、4月25日で4年が経った。当日、事故現場の献花台には多くの遺族らが訪れ、「全然気持ちは変わっていない」「何故なのかと問い続けてきた」「寂しいというより虚しい」と語っていた。しかし、マスコミにおけるこの事故の報道は驚くほど小さかった。4月23日に公然わいせつ罪の現行犯で逮捕された草(なぎ)剛さんの話題で一色だったからである。この4年間で、風化させてはならないと決意したものはあっという間に風化し、マスコミの報道姿勢や視聴者の盛り上がり方は全く変わっていないことがわかる。

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