犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

差別用語

2009-04-18 23:14:10 | 実存・心理・宗教
生まれつき目が不自由な人の苦しみはどのようなものか。この問いは正確ではない。このような問いを立てれば、問題は「苦しみ」への想像に集約されてしまう。そして、人は様々なことに苦しみを感じる存在である以上、「目が見える人は目が不自由な人の苦しみが想像できるはずだ」、「その苦しみをできる限り想像しなければならない」といった底の浅い教訓で話が終わってしまう。しかし、本来問題にしていたのは、このような話ではない。目の見える人がどうしても想像できないのは、目が不自由であることによる苦しみ以前に、目が不自由であるという事実である。毎日毎日、朝になって目が覚めても目が見えないということはどのような事実なのか、これはそれぞれの人が生きている人生の瞬間の連続でしかあり得ず、実際に経験したことのない者においては想像のできない断絶がある。

それでは、この「目が不自由である苦しみ」ではない「目が不自由である事実」とは、内心の苦悩の要素とは無関係なのかと言えば、そのようなことは断じてない。物理的・生物学的に、五感において視覚が不自由である状態を体験したいのであれば、単に目を閉じて暗闇の中で過ごしてみれば済むことである。そうではなくて、物心付いたときに「どうやら世間の多数派の人は自分と違って目で物を見るということができているらしい」と徐々に知らされ、それでも「目で物を見るということがどのようなことなのかがわからない」という事実に直面し、それにもかかわらず「自分はすでにこの人生を生きてしまっているしかない」という現実から逃れられないと知ったとき、それは現実であるところの実存的苦悩である。これを、苦しみへの想像というお説教レベルで語れば、本来問題にしていた繊細な地点はすぐに遠のいてしまう。

社会的弱者の救済という政治的目標を掲げれば、その保護意識は差別意識と同根であることが指摘され、問題は腫れ物を触るようなデリケートなところに入り込んでゆく。挙句の果ては、放送禁止用語、言葉狩りの是非という政治的な賛否両論で熱くなり、本来のところの繊細な実存的苦悩は完全に忘れ去られる。問題を解決しようという手法が、いつまでも問題を解決できないことには理由がある。この世の事実とは、それぞれの人が生きている人生の瞬間の連続でしかあり得ないならば、差別の解消とは、改めて政治的に叫ばれるものではない。例えば目の見える人が、人混みで白い杖を落として途方に暮れている人を助けて感謝の言葉を言われたとき、その人が無事に横断歩道を渡り切った後ろ姿を見送って安心したとき、目的地に着けるように心の底から祈ったとき、そこには保護意識も差別意識も存在しない。ましてや、目が見えて生まれた自分の幸運に感謝する心情や、目が不自由な人に対する偽善的な尊敬の心情が入り込む余裕はない。

日本には、「目は口ほどにものを言う」「百聞は一見にしかず」「目から鱗が落ちる」といった古くからの諺がある。これらは差別用語でも何でもない。しかしながら、この諺をどこからか聞かされるたびに、目が不自由な人は、目の見える人には想像を絶する現実に直面させられることになる。この現実とは、差別用語の禁止において指摘されるところの不快感や精神的苦痛とは全くの別物である。それは端的に、目の不自由な人が自らの人生を生きているということは、目の不自由な人生を生きていることと同義であるという現実であり、そのような現実に直面する瞬間の積み重ねによって今の人生の瞬間があり、それによって現在の人格が形成されているということである。目が見える人の人生においては、目が不自由な人のこれまでの人生の瞬間にはどれほどの積み重ねがあったことか、絶句して沈黙するしかない。そして、何も語ることができないならば、その場しのぎの差別用語の言い換えの技術を熱く議論するはずもない。