犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

吉本隆明著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅱ「考えるべきいちばんのポイントとはなにか」より

2009-04-24 18:21:57 | 読書感想文
p.96~
たとえばオウムなら、何人かが集まってそこに住んで、町の人は「出ていけ」というふうにデモをやっています。オウムなる考え方から言えば、市民権はあるし、別にその本人が殺人をしたわけではないのだから、同じ宗教団体に属していても、なにもしないのにそれを初めから排斥するのはおかしいんじゃないか、というのが正論の理屈になると思うんです。だけど(笑)、もう少し微細に考えて、同じ職場で机を並べてみたいになったら、なんでもない人とオウムの人とで気分は同じかというと、建前上は「同じだ」と言いたいけど、心理の微妙なヒダまでたどればまったく同じとは言えないでしょう(笑)。

法律的に差別するのはおかしいと思ってますけど、では無意識の奥底ですっきりするかと言えば、個々の人たちの心の奥の問題の解決は、個人にゆだねられるべきという問題が残ります。そこの問題は自分の責任で片をつけないといけない。臓器移植の場合もそれと同じ問題が生じてくる。どっちが妥当かは、本当に個々の場合でしか決まらない。本当は、臓器移植してもあまりもたないと言われた人が、いっぱいもつかもしれないし、そんなことは個々の場合でわからない。そうするとなにか社会的な意味合いで、臓器移植というのをいまの段階でしていいとか、悪いとかいうのは、社会的な問題としてはちょっと簡単には言えない。

p.102~
臓器売買の話や一つひとつの臓器に値段がついているというのを本などで読む機会があると、「人間てなんだ?」という問題が出てきます。おそらく解決は早急にはつかないだろうけど、でもその問題は出さないで、表面だけでやってるといけねぇな、という感じがします。いま、掛け値なしに言えば、たとえばクローン人間なんていうのはすぐにでも作れますからね。それを作っちゃったらどうするの? というのが、ありますね。こういう状態は、「人間ってなんなんだい?」ということが、本当ならもうちゃんと解決できてないといけないのに、科学のほうが先へいっちゃってていけない、という状態だと思うんですよ。この臓器移植の問題も、「そういうことをやりゃできるんだよ」とか、「売り買いもできるんだよ」というふうになってるのに、それを伏せておいて、カッコいい論議だけやったってしょうがねぇな、という気がしますからね。


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「今こそ、国民全体で臓器移植法を根本から議論すべき時期に来ているのではないでしょうか」

「10年前にも同じこと言ってたでしょう。今こそ今こそって、10年間何をやってたんですか?」

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