犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小浜逸郎著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅱ「子どものためというエゴイズムこそ大切にしたい」より

2009-04-24 22:30:14 | 読書感想文
p.110~
脳死はあくまでも「脳死」であって「死」ではない。純粋に医学的な意味に限定しても、「完全な死」は、従来からの「心臓死」を基準とすべきである。たとえ人工呼吸器で生かされているにせよ、家族にとって、手を握れば血の通った暖かい体温が感じられ、名を呼ぶと血圧が高くなるような状態にある身内の人間を、「死体」と見なせというのは、心情的に不自然だからである。「人の死」とは、単なる個体の生理システムの解体を意味するのではなく、その人がそれまで担っていた現実的な共同関係の解体を意味する。この場合、共同関係としてもっとも重要なものは、家族、およびそれに類する近しい関係である。

臓器移植を求める要望に対して、「いかにしても生き延びようとする人間の醜いエゴイズム」というように問題を一般化し、「この世には受け入れなければならない宿命というものもある」といったことを説く人もいる。しかし、そういうことをしたり顔に説く人たちは、明日をも知れない深刻な心臓疾患や肝臓疾患に悩んでいる人に現実に向き合っていないところで、「人間の尊厳」などを抽象的に議論しているのである。そういう人たちにしても、たとえばいま自分の子どもが同じ局面に立たされたら、やはり、できることはなんでもやってほしいと思うに違いない。

p.115~
作家の中島みちは、1992年の時点で、「健康人である大多数の国民がほとんど関心を持たない問題、なかんずくその本質までしっかり理解しようという関心を抱きがたい問題について、包括的、観念的な形で論議しても、真の社会的合意など形成されるはずがない」と述べている。私もまったくそのとおりだと思う。「脳死は死である」と法的に明文化されることによって、臓器提供の意思を持つことが正義であり、臓器提供を拒否することになんとなくうしろめたさを覚えなければならないような空気が醸成されることも疑えない。自由な自己決定というと聞こえはいいが、「決定を迫られる」ということは必ずしも「個人の自由の伸長」を意味しない。「あなたは自分の臓器を提供する意思がありますか、ありませんか」という問いには、「いらざる自己決定」を迫る脅迫的なニュアンスが含まれている。


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「もしあなたの子どもが心臓疾患でだったとき、一刻も早く手術したいとは思いませんか?」

「そりゃそうですよ。臓器移植法の改正に賛成です」

「もしあなたの子どもが脳死状態になったとき、簡単に心臓を提供できないのではありませんか?」

「そりゃそうですよ。臓器移植法の改正に反対です」

「あなたは質問によって賛成になったり反対になったり、一貫性がないのではありませんか」

「そりゃそうですよ。質問する側がそんな質問ばかりするんですから」

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