犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

平澤正夫著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅳ「悪魔としての移植医療」より

2009-04-26 21:59:51 | 読書感想文
p.175~
93年10月25日、大阪市内の病院に勤める看護婦K・Fさんは頭痛を訴え、守口市の関西医大病院に運ばれた。クモ膜下出血と診断され、翌26日手術をうけたが意識不明が続いた。人工呼吸器をつけたままのFさんの家族に対し、K主治医は術後5日目の30日、突然、「腎臓の提供を考えてください」と迫った。動転する家族は、さらにその翌日、救命救急センターのC助教授から、「どうです。家族で相談してくれましたか」と催促された。家族はFさんに臓器提供の気持ちがあったらしいことを知らされ、しぶしぶ腎臓の摘出に同意した。

その後すぐに、Fさんへの点滴の管が4本から1本に減らされた。自らも現役の看護婦である母親のNさんは、それを見て「治療から見はなされたんだ」と悟った。血圧が70に下がったところで、「腎臓を洗います」とC助教授。Fさんの大腿部にチューブをさしこみ、そこに灌流液を流して腎臓に送った。灌流液は腎臓の鮮度を保つための冷たい保存液である。Fさんがまだ生きていて、心臓が動いていても、また、脳死宣告がなくても、そんなことは関係ない。腎臓提供を家族が承諾したあと点滴が減らされたわけだが、そのため、Fさんは水分や栄養分の補給をたたれ、死がはやまる。ただし、移植につかう腎臓だけは灌流液で鮮度を保つ。要するに、臓器移植医療にとってよりよい状態の腎臓を刈りとることが至上目的で、Fさんの生命は邪魔ものだった。

p.179~
阪大病院から目と鼻のところにある千里救急救命センターでは、93年10月、臓器のすさまじい刈りとりが行われた。ぜんそく発作で倒れて頭部を強打した人が同センターに運びこまれて、脳死判定をうけたあと、家族は医師に献体をすすめられて「臓器組織提供承諾書」を書いた。といっても、動転する家族が医者や移植コーディネーターと向き合い、彼らのほうが承諾書にある臓器組織名に手ばやく印をつけていったのである。その結果、患者は腎臓、肝臓、角膜、心臓弁、血管、皮膚、耳小骨と手当たり次第にとられてしまった。遺族はわが家にもどった遺体の無残さを、「皮膚、ハガキ大で36枚分はあまりにもねえ。イナバのシロウサギのようになってしもうてます……」と表現した。


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このような実例の報告は、臓器移植反対派にとっては非常に説得力があり、賛成派にとっては全く説得力がない。賛成派にとっては、反対派の意見はすべて不快感を催すものであり、その論拠もすべて不愉快である。同じように、反対派にとっては、賛成派の意見はすべて不快感を催すものであり、その論拠もすべて不愉快である。医師は別に家族に無理強いしたわけではない、巧妙に口説いたわけでもない、動転する家族を催促したというのは事実の誇張や歪曲である、「臓器の刈り取り」という表現は先入観に基づくレトリックだ、このような争いが10年間続いたのであれば、今後10年でも20年でも同じ争いは続くはずである。「臓器組織提供承諾書」にハンコをついたら終わりだというならば、生命倫理の根本の話が、連帯保証人の契約書レベルの話にまで落ちてしまう。

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