犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中野翠著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅳ「あの厭な気分にはこだわりたい」より

2009-04-26 23:28:37 | 読書感想文
p.191~
なんとも言えない、とても厭な気分が残った。人の死を待ち受けるような、ガツガツとした空気。ドナーになった主婦の脳死判定をめぐるトラブルがあったでしょう。その間のメディアの報道ぶりには、人の死をジリジリして待ち受けるようなあさましい空気があった。脳死移植が認められて、フレッシュな臓器が移植されるという可能性が開かれて来ると、それによって救われる人の人たちの心の中に生への希望とともに、当然自然の人情としてあさましい感情も生まれてくるんじゃないかと思うの。臓器をもらう人のなかでも順位の高い人は、ドナーの脳死や順位の高いレシピエントの死を望んだり羨んだりする感情を抑えがたくなるだろうし……。

人間が他人の臓器をあてにしあう世の中って、それは助け合いの精神にみちた美しい世の中なの? それとも生への妄執に取り憑かれた醜い世の中なの? それとも……、美も醜もない、人間の本性のあるがままに突き進んで行けばいいってことなの? ほんとうにほんとうに、いざその身になってみないとわからない。でも、これだけはまずはっきりさせておこうと思っている。人から臓器をもらうからには人に臓器を提供する、その意志をはっきり固めておくべきだと思っている。逆に、人から臓器をもらう気もないし、自分の臓器を提供する気もない、という考え方があってもいい。

p.195~
その「欧米では……」「先進国では……」という言い方が私は厭なのよ。半端なインテリは、その言葉を持ち出されるといきなりお尻に火がついたようになる。自分の心の奥底にあるこだわりやためらいや迷いに全然、目がいかなくなる。踏みつぶしてしまう。そして、そのうち自分が踏みつぶしたものに復讐されるのよ。ちょっとつまずくと、いきなり一転して先祖返りみたいに妙な神秘主義だのオカルトだのに走ったりするのよ。自分の心の中にある不合理な感情に人びとは、もっとこだわるべきだと思うよ。私は昨年春の脳死移植騒動の時に感じた、あの漠然とした不愉快と不安にはこだわりたいと思っているのよ。


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臓器移植の賛否両論と、死刑制度の賛否両論は、構造がよく似ている。
臓器移植の場合、何の知識もない素人が印象で語れば、専門家からは「実態も知らずに評論するな」と怒られる。その一方で、「国民レベルで臓器移植について議論し、世論を高めましょう」と言われて、何だかよくわからない。そして、知らない間に保険証の裏側がドナーカードになっており、臓器を提供するか否かの決断を迫られている。
死刑制度の場合、何の知識もない素人が印象で語れば、専門家からは「実態も知らずに評論するな」と怒られる。その一方で、「国民レベルで死刑制度について議論し、世論を高めましょう」と言われて、何だかよくわからない。そして、知らない間に裁判員の通知が送られ、死刑を言い渡すか否かの決断を迫られている。

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