犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

橋本克彦著 『私は臓器を提供しない』 ・Ⅳ「人間関係を視野に入れない臓器移植はつき合いたくない」より

2009-04-27 01:23:38 | 読書感想文
p.198~
ことは相当な新次元に突入しているというのに、それらの連鎖を「人類愛」、「生命の尊さ」などといった人類史のもっともおおざっぱな理念、誰にも文句のつけようのない、逆に言えばあってもなくてもいい日めくり標語のような理念で根拠づけるほどおめでたくはなりたくない、というのが俺の考えの全部である。徹頭徹尾人体各部位の廃物利用、まるでゴミのリサイクルみたいな考え、といった基本理念が掲げられ、大多数が了解したとしたら、まいった、あげるよ、もってけよ、と俺は答えるかもしれない。人間もたいしたものだ、ついに体の使い回しを使い回しと認識して、それを納得するほどにさばけてきたと思えば、文句はない。

p.206~
俺は臓器移植にてれているのかもしれない。いや、あの臓器移植法の条文の中の「臓器が人道的精神に基づいて提供されるものであることにかんがみ」という文章にてれている。かゆいのだ。あの文章が「臓器が人体各部の廃物利用であることにかんがみ、大事に使わなければならない」というような条文であれば、かえって納得するというココロが、いまの俺の心情である。事態を冷静沈着に正確に見据えるということが前提とされずに、人道的精神に依拠しているからこの行為はおごそかで立派である、という欺瞞がかゆくてならない。臓器を与え、臓器をもらう関係などは「人道」の幕の向こうにかくすより一度しっかり現実の場へ引きだして見つめたほうがよろしい。

p.216~
俺の肝臓は非常にしばしば俺とともに悲嘆に耐え、俺が酔っぱらって馬鹿笑いをすればその笑いを支え、最悪の酒の最悪の酔いでさえさばいてくれた。俺の心臓はいい女の前では高鳴り、俺とともに恥じ入り、怒りのときには空転し、失意のときには貧血した。全部俺とともに時をすごした。ココロとともに唯一無二のもの、誰のものでもない俺である。この俺が移植され、あのときの俺の胸のときめきが誰かの胸で鳴ることが了解できない。意識と臓器が他者との不同一を知覚する。自同律の不快どころではない。こうした臓器意識までを視野に入れて、臓器移植が考えられてきたのかどうか。人間はいつだっておっちょこちょいに先走って、後知恵でなんとか了解の構造をでっちあげるのが常ではあるけれども。


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未来志向・進歩主義に対する態度の取り方という点から見てみると、死刑制度と臓器移植の賛否両論の類似点がよく見えてくる。すなわち、殺された犯罪被害者は死にゆくドナーに対応し、生きている死刑囚は生きているレシピエントに対応する。「生命の尊さ」という概念はいかようにも解釈できるが、ここに誰の生命の尊さを読み込むかが結論を分ける。目の前で生きている者だけに目を奪われれば、「死刑囚は現に生きているのにどうしてわざわざ殺すのか」、「レシピエントは現に命が救えるのにどうして命が救えないのか」という結論に至ることは疑いない。

これに対して、死者の生前の人生、すなわちかつては確実に生きていた人生にも想像を及ぼせば、「生命の尊さ」は生命の大切さだけでなく、死の大切さも含む概念となる。そして、目の前で生きている者の生命だけに注目することには違和感が生じる。この内心の深いところの微妙な違和感は、政治的な未来志向・進歩主義とは合致しない。内心の深いところの違和感を持つ者は、人の命はリレーできないことを知るため、未来志向的・進歩主義的な「命のリレー」の言い回しがどうにも気持ち悪い。

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