犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

広島県呉市 小1女児死傷事件

2009-04-09 22:03:49 | 実存・心理・宗教
4月8日午後0時20分ごろ、広島県呉市の市道で、近くに住む広中美空ちゃん(6つ)ら市立広小1年の女児2人が、発進しようとした市営の路線バスの前を横切り、10メートルほど引きずられた。美空ちゃんは死亡、もう1人の女児(6つ)も重傷を負った。2人は6日に入学したばかりで下校中だった。広署は自動車運転過失致死傷の疑いで、バスの運転手・竹永新造容疑者(60)を現行犯逮捕した。


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● 論点その1 バスの運転手の責任
この運転手には、普段から運転が乱暴だとの悪評があり、バス会社に投書が寄せられていたそうである。公共交通機関であるバスは、停車と発車を繰り返す乗り物であり、しかも子供や高齢者が多く利用する以上、運転手には細心の注意が求められる。それにもかかわらず、注意を怠ったことは言語道断であり、厳しく責任が問われなければならない。(責任を問うたところで、わずか6歳で短い人生が終わってしまったことは取り返しがつかないのですが。)

● 論点その2 バスの構造的な責任
今回の事故の原因は運転手だけであろうか。大型車両には死角が多く、発車の際は非常に危険である。運転席から見て、左下や左側面は死角そのものであり、ミラーがあっても瞬時に見えるわけではない。現在は防犯カメラを見てもわかるとおり、カメラは小型化され、安価で販売されている。従って、一刻も早く全国のバスにカメラを設置しなければならない。(設置したところで、わずか小学校入学後3日目で命を奪われてしまった事実は変えられないのですが。)

● 論点その3 小学校の責任
今回の事故につき、運転手やバス会社を責めれば済むのだろうか。そのバスには教師が乗車しており、バス通学の指導期間中だったというのだから、学校が責任を免れることはできない。教師が車中の安全管理だけに気を配っていたというのであれば、バスを降りてから自宅に着くまでの安全管理に配慮が足りなかったと言わざるを得ない。従って学校は、再発防止に向けた対策を早急に講じるべきである。(講じたところで、残された家族の悲しみが癒えることはないのですが。)


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世の中には、政治的な賛否両論の構造、あるいは犯人探しと糾弾の構造が沢山用意されている。これに従ってしまえば、難しい問題は簡単な問題に姿を変える。死者は永久に帰らない、しかし死者が帰らない限り根本的な解決はない、「だからこそせめて」死者のために何かをしなければならない。この「だからこそせめて」の部分を忘れると、問題の所在を突き止めて解決策を講じるという、緊張感のない話になる。それは、わずか小学校に入って3日目であり、わずか6歳の人生であったという、一番逃げてはならない部分から逃げることである。