犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「はじめに」より

2009-04-05 23:45:02 | 読書感想文
p.4~

平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。耐えがたい苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、はてしもない虚無と倦怠。

そうしたもののなかで、どうして生きて行かなければならないのだろうか、なんのために、と彼らはいくたびも自問せずにはいられない。たとえば治りにくい病気にかかっているひと、最愛の者をうしなったひと、自分のすべてを賭けた仕事や理想に挫折したひと、罪を犯した自分をもてあましているひと、ひとり人生の裏通りを歩いているひとなど。いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいを見出すのだろうか。


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これは1966年(昭和41年)の文章であるが、非常に普遍的な地点を端的に捉えており、現在にもそのまま当てはまる。特に「最愛の者をうしなったひと」は「いくたびも自問せずにはいられない」「毎朝目がさめるということがおそろしくてたまらない」との指摘は、合理主義や科学主義に流れがちな現代社会が見落としている部分である。現在の犯罪被害者遺族への支援策についても、「癒し」「慰め」「立ち直り」といった能書きばかりでなかなか噛み合っていないところがあるが、神谷氏の視点を借りてみれば、この原因がよくわかる。被害者支援策は、人生の勝利者、未来志向、夢は必ず実現するといった世間一般の成功哲学を超越していなければ、その究極のところで的を外す。

これに対して、「罪を犯した自分をもてあましているひと」は「はてしもない虚無と倦怠」で「どうして生きて行かなければならないのだろうか」と悩んでいるとの指摘は、現代社会の主な裁判を見る限り、なかなか望めない状況となっている。これもやはり、夢の実現、自分探し、野心や名誉欲といった世間一般の成功哲学の影響からは逃れられない。反省とは何か、更生とは何かを考え詰めていては、流れの速い現代社会では取り残されてしまう。そのためには、精神鑑定によって責任能力を争い、1年でも刑期を短くして外に出ようとする。そして、とにかく急がないと人生が終わってしまうので、「反省しました」「更生しました」という名目を得ることが自己目的化する。これらは、神谷氏が捉えている犯罪者の姿からすると、あまりにも浅薄な光景である。