犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

自分の死よりも悲しい死

2009-04-20 00:05:32 | 時間・生死・人生
哲学研究においては、「自分の死よりも悲しい死」はあり得ない。哲学において問題となる生死とは、あくまでも自分の生死だけだからである。もちろん、その自分とは、「この自分」だけではなく「すべての自分」である場合もあり、独我論だけを意味するわけではない。いずれにしても、哲学研究における生死の場面では、親子・夫婦・兄妹といった肉親の死が中心テーマとして重視されることは稀である。いわゆる哲学病とは、「自分はたった一人この広大な宇宙の中に生まれて来た」「自分はたった一人でこの広大な宇宙の中で死ぬ」という事実が頭から離れず、しかもそれを考えることが楽しくて仕方がない病である。哲学研究における「この自分」はいつも孤独であり、それが一旦「すべての自分」を意味すると、話は一気に地球規模の話が飛ぶことになる。そして、「絆」「縁」「愛」といった言葉で語られるところの宗教的な生死の議論は、劣ったものとして軽視されるようになる。

哲学における1人称の死は、2人称以上の死を受け付けないほどに絶対的な地位を占める。ゆえに、2人称の死は多くの場合、3人称の死とまとめて語られる。この場面において、「自分の死よりも悲しい死」とは、単なる比喩であるとしか受け止めてもらえない。他者の死を悲しむことができるのは、あくまでも悲しんでいる人が生きている限りにおいてである。先に死んだ者は、後から死んだ者の死を悲しむことができない。すべては生きていればこその喜怒哀楽であり、2人称の死は1人称の死に先立つことができない。従って、生きている者は一度も死んだことがないのであり、そうである以上は自分の死と他者の死を比較することはできないのだから、「自分の死よりも悲しい死」は強調のレトリックにすぎないということになる。「自分が代わりに死んであげたかった」という心情も同様である。純粋に論理を突き詰める哲学論においては、多くの場合、これらの心情は門前払いにされる。これは裏を返せば、哲学研究の大きな弱点である。

「自分が代わりに死んであげたかった」と語る者は誰しも、自分の死が万物の絶対的消滅であることを知っている。それにも関わらず、偽らざる心情がその方向に向くということ、人の生死が論理的な現実だというならば、実際にこれ以上の現実があるというのか。最愛の人が死んでしまった、人生これからという時に、平均寿命よりも何十歳も若くして、生きる時間を与えられず、世の中の多くの人が経験することを経験することもなく。なぜだろう? なぜなのだろう!! どうして世の中はこうなのか。どうして世の中はこうなっているのか。なぜ人は死ぬのか。この世の中には、どうして死別などというものがあるのだろうか。最愛の人が生きていない世の中など、生きていたくない。神もない、仏もない。いや、神も仏もいてもいなくてもどちらでもいい。いるいないという問題自体がどうでもいい。現に、頭だけではなく全身においてこのように感じているならば、現にそうであるという以外に、解答はないはずである。すなわち、「自分の死よりも悲しい死」を、単なる比喩や強調のレトリックだと言って済ませられるはずもない。

宇宙の絶対的な消滅である1人称の死に集中しすぎた哲学論が見落としてきたのは、1人称の生である。本来、生死は表裏一体であるから、1人称の死を考えることは1人称の生を考えることに等しい。そして、2人称の死は、1人称の生の問題そのものである。これは、人生の中でどのような死別を体験するかは人それぞれであり、取り替えがきかないということである。すなわち、最愛の人を亡くした人生は、亡くさなかった人生を生きることができない。逆もまた真である。ここにおける取り替えのきかない人生は、人は生まれた限り誰しも死ぬものだという一般論を拒むものである。また、ここにおいて正当にも、順縁と逆縁の差が顕在化してくる。一度きりの1人称の生は、1人称の死を体験できないがゆえに、その体験できないものを比較の対象に置く。そして、1人称の生は他者を2人称と3人称に分類した上、無数の他者の死の中から「自分の死よりも悲しい死」を全身で感じ取る。あまりに当たり前の現実であり、これ以上解釈のしようがない。